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■電通社員が命で教えた「右上がり成長の終わり」

 電通自殺について、ずっと考えている。
 なんとも言えないやりきれない気分が続いているのだ。

 東大卒で、電通に入社してたった9ヶ月で過労で自殺した24歳の女性がいた。

 電通での過労自殺は、これが初めてではなかった。
 こうした過労自殺を、ただ労働環境における法制度やその運用の問題としてとらえるだけでは、同じことが繰り返されるだけだろう。

 法律は一朝一夕には変わらないし、過労を強いる仕組みを電通と同じように多くの企業が体質として維持している以上、いつまでも勤務先の言い分に従っていれば、自殺をなんとか避けられたとしても、精神的に追い詰められたり、体の健康を害してしまうかもしれない。

 それも、結局は勤務先の中では自己責任として片付けられる形で。

 そろそろ、「優秀さ」について振り返る必要があるのではないか、と
僕は思う。
 東大まで進学して、多くの知識を得たはずなのに、その知識の意味をふまえて自分の人生に活用できないのであれば、それまで詰め込んできた「知」とはいったい何なのか?

 学校という特殊な文化にある恐ろしさについて客観的に検証することもなく、学校という社会に自分がコミットしないまま社会に出れば、「知」は勤務先を喜ばせるスキルにはなりえても、働く自分にとっては空虚で無力なものでしかないだろう。

 日本の戦後における学校の役割は、優秀な官僚と社員を養成するためのものだった。

 学校の最優先の目的は、生徒がやがて「雇われる」ことを前提に、権力者や経営者にとって使いやすい人材に仕立て上げることだったのだ。
 だから、小・中・高・大のどの段階でも、学校は以下の4条件に見合う児童・生徒を求めてきた。

① ガマン強くて、学校内にイジメなどの問題があっても、学校側に解決を求めない
② どんなに勉強の成果が上がらなくても、「私の能力不足」と自分を責めるだけ
③ 学校が体罰や自殺などの不祥事を抱えても、「報道関係者には話すな」と箝口令を敷く
④ 教員や生徒が自殺やひきこもりをしても生徒間で無関心にし、解決の仕組みを作らない

 この学校的な体質を疑わないまま、目先の勉強だけに集中していれば、自分がその学校の一員である当事者性は育たない。
 校旗を掲げ、校歌を歌おうとも、愛校心など生まれない。

 僕は愛校心など必要ないとは思うが、ここで考えておきたいのは、校内で起こる問題(例:いじめ、クラブ活動の予算のゴタゴタ、先生の教え方など)について、誰も自分事のように思えないとしたら、「自分はこの学校をよりよい場所へ変える権利を持っている」とは認知できないってことだ。

 たった数十人の教室の中であっても、「自分がこのクラスをもっと生きやすい場所にできる権利を持っている」という思い入れすら持たされることがなければ、いざ卒業し、就職しても、自分が勤務先に対してものを言える権利を持っていることにすら思い当たらないだろう。

 権利意識を持たないことは、自分自身の尊厳を守ることを正当だと認識できないことだ。
 それに気づいた権力者や経営者は、彼らにとって都合の良い人材を「優秀」と呼ぶことになる。


 学校は、子どもを大人にとって都合の良い人材に仕立て上げる場所だ。
 大人は常に時代遅れなので、「何かがおかしい」と違和感を覚える子もいる。
 しかし、その疑問は、目先の勉強のためにかき消されてゆく。

 それでも、「たかが文科省の役人が勝手に作った教科の成績で一喜一憂するなんてバカバカしい」と思えた瞬間から、この点取りゲームを仕掛けている大人たちの思惑にハッと気づく子もいる。
 実は、そこでようやく近代の子どもは大人たちによる洗脳から目覚め、自分自身で自分の尊厳を守らなければ生きていけない社会の現実に触れるのだ。

 逆に言えば、自分が何を覚えさせられ、誰のためにがんばりを強いられているのかにピンとこないままだと、いつまでも文科省の役人が仕掛けた洗脳が解けない。
 自分が本来学びたいことが与えられた教科ではない場所にあることや、「自分がワクワクできることを仕事にしていいんだ」という気づきにも至らず、これだけ不況が叫ばれていても正社員として働くことが安定であるかのように妄信を続ける。

 この遠因は、70年前の敗戦で日本に民主主義がもたらされたのに、学校では民主主義を知識としては叩き込まれても、マインドとしては理解できないまま、権利意識を育てない学校の言いなりにされてきた点にもある。
 前述したように、学校自体が民主的ではないし、生徒にものを言う権利意識を育ててこなかったのだから、「社会は交渉の余地のないものだ」と刷り込まれてしまう子どもが増えるのも当然だ。

 しかも、戦後の高度経済成長の時代には、教師や上司との交渉の余地がなくても、ガマンして働けば豊かになれた。
 「金になるなら民主主義なんて贅沢は言い出すな」という空気を作ってきてしまったのだ。

 この「成金体質」は、90年代に入って低成長時代を迎えると、ただの無理強いにしか見えなくなるため、人々はようやく「ブラック企業」という言葉を手にした。
 そもそも、高度経済成長からバブルまでの日本企業は、どこも「ブラック企業」にすぎなかった。
 「24時間、戦えますか?」という栄養ドリンクのCMがTVに流れた時、誰もクレームをつけなかったぐらいだ。

 子どもは、学校で権利意識を奪われ、社会に出ると「民主主義なんて贅沢」という成金体質に染め上げられ、「おまえは劣っている」「上には上がいて、おまえは下」という同調圧力で束縛し合う社会を当たり前のものとして受け入れるようになってしまった。
 実際、大衆を支配したがる人は、「どうせおまえにはできない」を徹底的に刷り込む。

「東大出身でないおまえには高収入は無理」
「会社で出世できない奴には起業は無理」 
「ニートやひきこもり、メンヘラには仕事は無理」 

 そんな理屈では割り切れないほど多様な選択肢が現実の社会には豊かにあるのに、支配者に居座りたい人たちは、それを見せないのだ。
 そういう格付け社会では、国民は力の強い人たちに支配されやすい。
 権力・財力・コミュ力などの力の強い人が上位に君臨し、彼らは弱さの価値を認めないように大衆を平気で洗脳する。
 自己否定を強いては強者の基準に従わせようとし、従えない者の尊厳を奪おうと洗脳する。
 高学歴でなければ、高収入になれないという不安と恐怖によって洗脳し、支配するのだ。

 仕事さえがんばれば誰もが豊かになれた高度経済成長は、その洗脳の仕組みを見えなくする装置だった。
 それでも、洗脳されてる人は、自分が洗脳されてることも認めたくないし、自分が悪影響を受けている面も気づかないし、原理主義的な考えによって自分が動いていることにも鈍感だ。
 うすうす「やばい」と思っていても、そこから抜け出すのに勇気を必要としていること自体が既に悪影響による洗脳の結果だと理解できないし、認めたくないのだ。



●心中列車に乗り込むほど、きみの命は安いのかい?

 町山智浩さんのモハメド・アリの映画に関する解説を聞いて、黒人解放運動の前では黒人自身が自分自身を「白人より劣っている」と認知していたと知った。
 だから、そんな黒人ボクサーを相手に、モハメド・アリは「アンクル・トム野郎」と言いながら殴りつけていたんだそうだ。

 モハメド・アリは、たった一人で黒人差別する社会に立ち向かっていたのだ。
 自分自身を誰かと比べて劣っていると認知し、自分の生活の安心や命まで自分以外の誰かに預けてしまう当時の黒人の隷属ぶりは、そのまま現代日本の国民にあてはまるだろう。
 そこで、24歳の若さで自殺した電通社員・高橋まつりさんの死から学ぶ必要がある。

 彼女が自分の命と引き換えに僕らに教えてくれたのは、上の世代による洗脳によって生産性の上がらない根性主義で働かされていれば、自分も含めて誰も幸せにできないってことだ。
 このことは、電通の終わり、旧来のビジネスモデルの終わり、高度経済成長のワーキングスタイルの終わり、隷属する文化の終わりを示唆している。

 満員電車に乗り込んで、「みんなと同じ」安心を手にしたつもりが、実はその先に橋がなく、心中まっしぐらの列車だったなんてこともある。
 資本主義社会では、「みんなと同じ」になれば、1人あたりの価値は最小化されるのだから、命が安くなるのと同じだ。
 「みんなと同じ」ところに幻想の安心や夢を見させてきたのは誰か?
 もう、わかっているはずだ。

 日本人は、高度経済成長という「成金体質」から覚める必要がある。
 会社は生き物だから潰れることもあるし、ビジネスに失敗はつきものだし、人生は右上がりだけでは終わらない。
 もう、バブルも高度経済成長も見込めない僕ら日本人に今必要なのは、根拠のない「右上がりの成長」でなく、アップダウンのある状況でも生き抜いていける持続可能な仕組みを作り出すことだ。

 それがわからず、右肩上がりの成長だけを盲信し続ければ、目覚めを先送りするだけだ。
 だからこそ、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
 良いことずくめでリスクのない社会なんて存在しないんだ、と。

 東大という社会に入れば、卒業後は「東大卒」が一生つきまとう。
 勤務先では、「東大卒なのにこんなこともできないの?」という視線に延々とさらされる。
 仕事内容だって、東大卒を期待されてハードルを最大に上げられてしまう。
 日本一税金が投入されている東大だからこそ、国民からの期待が最大になるのは当然だ。
 「日本一の大学」に入った代償は、計り知れないほど大きい。

 しかも、高収入が約束される職場に入ったら、その収入の高さに見合うだけの重労働を強いられるし、「頭、良いんだろ? 生産性向上の仕組みなんて自分で考えろ」と自己責任を当然のように押しつけられる。
 それで何とかがんばってみれば、高収入に見合う暮らしが手に入るのだから、辞められない。

 年収1000万円の暮らしを続けてきた人が、再就職で年収500万円の暮らしに変えられるか?
 変えられない。
 だから、どんなに狂ってしまうような労働環境でも、辞められないのだ。

 どんなに過労死や自殺をしかねない労働環境でも、高所得への依存症になれば、自力ではそこから降りられなくなる。
 高すぎる収入は、シャブと同じなのだ。

 親や教師からかけられたはしごを上ったら、大人になった時にはしごは外され、自分では降りられない高さまで来てしまった。
 転職による減収を考えれば、どんなにつらい職場でも、思考停止に逃げて続けるしかない。

 いざ、勇気を振り絞って退社できても、再就職で訪れる会社の方は「なんで高い年収を捨ててウチに来たのか?」と勘ぐるはずだ。
 そこで初めて、自分の居場所がこの社会に無いことに気づいても、周囲の人たちは同情なんかしてくれない。
 端的に「負け組」扱いのまなざしを向けるだけだ。

 そこで心身の病気をきっかけに退社を余儀なくされ、せっかくレールを降りて自由に自分の意志で人生を歩ける自由を手にしても、それまで自分の人生を自分で決めてこれず、周囲のレールに合わせてきただけの人は、自分の頭で考えられない自分自身の愚かさを責めるばかり。

 しかし、そうなる前に、自分自身や自分を取り巻く環境を空の上から俯瞰する視点を獲得し、自分の頭で検証し、自分のとるべき選択肢に気づけるのが、本物の「知」ってもんじゃないのかな?


 まつりさんは「一流企業に就職し、お母さんを楽にしてあげたい」と、東大に現役合格するほどの親孝行だったという。

 家族にも友人にも先生にも「良い子」として認められ、周囲から拍手喝采で東大へ進学し、祝福されながら電通へ導かれた子が、自分の意志で周囲の期待を裏切り、自発的に辞めるという選択ができただろうか?

 「良い子」は、自分を守るための尊厳と生きる力を奪われている。

 親孝行なんて、しなくていい。
 東大なんか目指さなくていい。
 自分の心の声を聞こう。
 その命は、何のためにあるのかを。

 電通自殺を他人事にできない人は少なくないはずだ。
 親や教師に「良い大学を」と勧められて高い偏差値の大学へ入り、「良い企業へ」と勧められてその通りの会社に入ったら過労死。
 かといって、休職・退職をすれば、「いつまでニートやってるの」と責め立てられる。
 「いいかげん私のペースで私の人生を作らせてよ」と怒りにふるえてる若者は、今日では少なくない。
 だから、仲間は、いる。
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