堀さんは、親から虐待された当事者100人の「親への手紙」を出版する僕のプロジェクトを応援してくれていて、彼自身の応援メッセージはプロジェクトの公式サイトで読める。
対談の動画を紹介する前に、日本で児童虐待をなくそうと呼びかけることへの風当たりの強さについて説明しておきたい。
「児童虐待をなくしたい」と聞けば、誰もが「そうだ!」と共感してくれるかと思いきや、現実は違う。
親から虐待された当事者が「親を愛せない」「親に対しては憎しみでいっぱいだ」などと素直に被害者としての気持ちを伝えようものなら、条件反射のように「親のこともわかってやれよ」という言葉が飛んでくる。
あたかも、虐待した親を許すことが成人への登竜門であるかのように加害者側の事情に目を向けさせようとする人たちが珍しくないのだ。
そんなことを平気で言う人たちは、たとえば、レイプされた女性にも「レイプした男のことをわかってやれよ」と言うのだろうか?
おそらく言わない。
しかし、加害者が親なら「許してやれ」と言い出す。

家の外で他人によって行われた犯罪なら、加害者より被害者の苦しみを考えられるのに、家の中という密室で親子間で行われる児童虐待に関しては、被害者より加害者の事情をくもうとする人たちがいるのだ。
しかも、「親を愛しましょう。憎んじゃいけません」という原理主義者は著名な文化人にもいて、大衆の人気を笑顔で集めてる。
親子間で行われる虐待については、いくらでもセカンドレイプをしていいという認識を持つ人が、この現代の日本にもハッキリと存在するのだ。
そういう大人には、絶対になりたくないね。
うそつきを増やしたくない。
「良い子」の仮面をつけるのを強いられ、仮面を取り外せなくなって生きづらい若者が増えた責任を、彼らはとらないもんね。
「悪いのはすべて自分のせいだ」
そういう感覚をAC(親から虐待された経験者)は持ってる。
だからこそ、「そうじゃないよ。一方的な支配をしてきた親から離れれば、自分の責任はもっと小さいと気づけるよ」という本を、僕は作ってる。
それを、「全部親のせいにしてる」と平気で誤解したまま拡散する人もいる。

身体的虐待や性的虐待、ネグレクトまでは「同情」するが、それらと比べて心理的虐待や経済的虐待、文化的虐待が深刻ではないと判断する人も多い。
彼らにとって、自分事ではないからだ。
どんなタイプであろうが、虐待は一生の苦しむを負うだけの深刻さに満ちてる。
他人の痛みを勝手に低く見積もらないでほしい。
それは、偏見だから。
偏見は、さほど興味のないことについても平気で自分の幻想をはめたがるところから生じるものだ。
たとえば、品行方正を信条とする人から見れば、家出=非行・不良に映るだろう。
だが、親からの日常的な虐待から命からがら避難してきた子どもにとって、家出=不良のイメージは世間に助けてもらえなくなる。
偏見は、弱者を助けなくする恐ろしいものなのだ。
他人より、自分自身についてよく知ろうとしてみるといい。
幼いころに自分が親からされていることが虐待だと気づく人もいれば、結婚・出産してから親からの支配の大きさに気づく人もいる。
親を介護する年齢になって親を愛せないでいる自分を発見する人もいる。
虐待は時限爆弾のようなもので、見ないふりして先送りしても、やがて立ち現れてくるのだ。
それでも、子どもに衣食住さえ与えれば、焼いて食おうが煮て食おうが構わんという親は、いまだに先進国・日本に跳梁跋扈している。
そういう親のありように小さい頃からガマンさせられ、しんどさに慣れさせられた子は、自分がされたことを虐待だと認知できないまま大人になり、虐待への関心まで根こそぎ奪われてしまうのだ。
だから、虐待を大したことじゃないと認知したり、大人になって生きづらさを抱え始めてから「これって虐待ですか?」と他人に尋ね回る人も珍しくない。
親に虐待されたかどうかを決めるのは、子ども自身であって、世間や研究者、お役人、政治家ではない。
いじめがそうであるように、いじめる側やいじめを観察するだけの人に「いじめ」を定義づけられても、いじめられる側の痛みは消えない。
子どもが本気で嫌がることを親がするなら、それで十分、虐待なのだ。
(だから虐待対策予算を十分につけない政治家は、政治的虐待をしているともいえる)
(だから虐待対策予算を十分につけない政治家は、政治的虐待をしているともいえる)
ところが、虐待された子は、自分自身の判断や決定に自信が持てないし、自分の身に起きたことを判断する権利が自分にあるという自尊心を持てないままになってしまう。
それは、親が何でも先回りして子どもを支配し、子どもから「判断の主体性」を奪ってきた結果なのだ。
●親からされてイヤだったことを、吐き出そう
機能不全家族では、親子間の話し合いが成立せず、親の一方的な支配を飲まされる。
交渉の余地がないのだから、関係のまずさを覚えるのは子どもだけで、親は王様のように居直るばかり。
すると、関係改善の努力が子どもにも動機づけられず、親となる頃に子どもとの関係改善に努力する発想が奪われる。
だから、僕は、「無償の愛」とか「無条件の愛」よりも、「条件交渉の可能な余地の大きさ」の方がはるかに大事だと考える。
その余地が大きければ大きいほど、その関係に伴う対等さが担保される。
逆に、交渉の余地がほとんどなく、一方的にすべてを受け入れろという構えは、力の強い方が思考停止しても困らない支配関係を温存する。
日本では、賃貸アパートを借りる時だって「2ヶ月分を先に払うから家賃をちょっと負けて」なんてことさえ通らず、交渉の余地がゼロであることは珍しくないし、就職活動でも入社希望先の企業の求める条件を一方的に突きつけられるだけだ。

親という権力は、その財力を背景にいくらでも子どもの進路選択を捻じ曲げられる。
そして、いざ親の言うとおりの「良い子」になって後悔しても、親はその責任を一切取らない。
そもそも自分以外の人生に責任などとれないことを、支配的な親は子どもに教えず、自分の意のままに子どもを操ろうとするのだ。
それを「親心」と言い、世間を味方にして子どもを縛り上げる。
これが日本のこれまでの「しつけ」であり、家父長制の名残りであり、虐待を非犯罪化してきた「強者の論理」だ。
しかし、子どもの人権は、子どもが消費者ではないことから後手に回ってきた。
政治家も、選挙権のない子どもの人権を軽視してきた。
このまま10年後も20年後も、子どもの人権をないがしろにし続ける社会でいいの?
誰かへの隷属に慣れてしまうと、自分にされた悲劇も悲劇と認知する権利を持てないままだし、誰かの支配なくしては自分の飯や仕事、夢すら自分で作れない。
そんな人が多いままでは、ブラック企業で働くことを「しょうがない」と認知させ、自殺するほどの過労死を耐え続けさせ、アホな政策を平気でやる政治家をのさばらせるだけだろう。
人生の中で最初に自分から判断の主体性を奪ったのは誰か?
そういう自問が、今日の日本人には必要なんだと思う。
「もう親のことなんて思い出したくもない」と記憶からも逃げ出したい人すら珍しくないこの社会で、僕は虐待された人から「親への手紙」を公募している。
誰かが虐待された痛みを表に出さない限り、この国では親から支配され、隷属を強いられる悲劇がずっと続くからだ。
では、僕と堀潤さんの対談を観てほしい。
『新編 日本一醜い親への手紙』の関連イベントが、6月10日(土)の午後、新宿であります。
詳細は、コチラ。
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