「米が足りない」「米が高すぎる」という国民の声に応える形で、小泉進次郎・農林水産大臣は、5キロ2000円をめざして、随意契約で約20万トンの政府備蓄米を就任1週間で市場に放出した。
このスピーディな仕事に一部では称賛の声も上がっているが、同時に批判の声も上がっている。
「貧乏人は古い米を食え、金持ちは良い米を食えというのか?」
「去年は凶作じゃなかったのに米が足りなくて価格が上がってることが問題なのに、東日本大震災のときにも放出しなかったようなお米まで放出してる原因を突き止めなきゃ、毎年繰り返す」
同じ自民党の鈴木貴子氏まで、「持続可能な生産基盤あってこその食糧安全保障」と小泉農水大臣に反省を促している。
鈴木氏は「コメ農家が20年前から6割減っているのも現実だ。収益性の低さが生産基盤の弱体化(につながり)、コメの供給が不安定になる。ひいては消費者にしわ寄せが行く」と述べ、適正価格で安定してコメを供給できる仕組みが重要だと訴えたのだ。
鈴木氏の言い分はもっともだ。
実際、今回の備蓄米の放出は、食糧法を根拠法にした単なる手続きにすぎない。
食糧法の目的は、食糧の安全保障ではなく、あくまでも「主要食糧の需給及び価格の安定」にとどまる。
つまり、「安い米が足りないなら、食糧法に従って古い米を市場に流せば解決でしょ」という対症療法で乗り切ろうとしているところに、来年も同じ問題が生じかねない危うさを感じるわけだ。
食糧安全保障の点でいえば、日本の食料自給率は3割程度なので、7割を外国からの輸入に依存している以上、戦争が始まると日本人は1日1回の食事しかとれなくなり、飢え死にする人が増える。
だから、戦争を起こさないよう、外交のスキルアップをしないといけないし、同時に食糧自給率をさらに上げないと、米の問題も毎年続くことになるわけだ。
では、小泉進次郎は何を間違えたのか?
端的に言えば、「米がないなら備蓄米を出しますよ」という目先の解決に目を奪われてしまったことが問題なのだ。
1つの問題と向き合う時、「金がないなら金を与えればいい」という具合に、目先の問題だけを見て解決したがり、問題の背景をゆっくり考えた上で行動するということができない人がいる。
問題の背景を知ろうとしないまま、目先の問題だけにとらわれてしまうと、同じ問題が繰り返され、コスパもタイパも悪くなることはよくあることだ。
これは、問題を作っている仕組みや構造を、問題の外から冷静かつ客観的に見るメタ認識(メタ認知)が、学校教育や報道の現場でも鍛えられていないからだ。
兵庫県の斎藤元彦・知事を告発した元県民局長の私的な情報が漏洩した問題でも、第三者委員会は、漏洩は「知事が指示した可能性が高い」と結論付けたが、知事は改めて指示したことを否定した。
これも、漏洩を知事が指示したかどうかを問題にし続けている以上、知事と第三者委員会との認識のズレを解消することばかりが報道の焦点となっている。
この騒動が長引くことによって、本来の県政が滞ってしまい、兵庫県に生きている生きづらい人たちの問題が先送りされるという深刻な問題が放置され続けるわけだ。
兵庫県にも、今日の飯が食えない子どももいるだろうし、生きていくことをあきらめてしまいかねない若者もいるだろう。
兵庫県では、若い児相職員が人員不足の超過勤務によって、一人でお亡くなりになったが、県はたった200万円を遺族に渡して解決を図った。
県知事がメタ認識できずにいると、弱い県民ほど命を奪われてしまうのだ。
メタ認識ができないのは、政治家ばかりじゃない。
中居正広も、フジテレビの第三者委員会に対し、新たな声明を発表し、このように抗議した。
「当時、中居氏と相手側女性の間には、雇用・指揮監督関係や、上下の業務的権限関係は存在しませんでした」
中居氏側の弁護士は、あくまでもプライベートな関係しかなかったかように主張しているが、これは強引な無理筋だ。
そもそも被害女性は、フジテレビの社員だ。
社員である以上、業務命令には従わざるを得ないし、それは第三者委員会が認めているフジテレビの問題そのものだ。
同時に、中居正広も、被害女性がフジテレビの社員であることを知っていた。
テレビ局の社員は、視聴率をとれるタレントを接待でつなぎとめておきたい。
こうしたタレントと社員の関係を、第三者委員会は「権力格差」と調査報告書に書いている。
「中居氏と女性 A の間には圧倒的な権力格差のある関係性が存在する。このことも踏まえ
れば、女性 A は、上記のようなやりとりを経て精神的に逃げ道を塞がれたといえる」
権力格差がある以上、被害女性は中居にどんなことを頼まれても断りづらいし、実際は断れない。
フジテレビが視聴率の取れる自分に接待をしていることぐらい、中居もわかっていたはずだ。
それでも、「プライベートな関係」を主張し、あくまでも対等な恋愛関係があったかのように言い続けるのは、男女の仲を外から見たら「ただの主人と奴隷の関係」である真実を認めることになるからだろう。
中居のファンがそうした現実に目を向けないようにさせるために、中居側は「暴力はなかった」と言い続けるわけだ。
これは、メタ認識ができない多くの日本人に対して、あたかも真相がやぶの中であるかのように演出するガスライティングの手法だ。
権力格差がある関係にある2人が密室に入り、片方がPTSDを患ったら、性暴力があった疑いが濃厚になる。
これが、2人の間で閉じた関係を外から見るメタ認識だ。
このメタ認識ができないヘテロ男は、たとえば恋人がほしい時に「こうすれば女にモテる」みたいなマニュアル本を読みたがる。
それは、男女の仲だけを見て、2人の関係を外から見るメタ認識ができてない証拠だ。
だから、自分がどんな関係を求めているかを自問しないまま、相手の個人的な属性ばかりを求めてしまう。
「胸が大きい女がいい」とか、「専業主婦になってくれる女がいい」などの欲望を持ったまま、モテない人生を続けることになるわけだ。
個人的な属性ではなく、2人を外から見た関係のありようを見つめれば、たとえば「依存的な関係はお互いを苦しめる」と気づけるし、「自分は別居しながらたまにお互いの家に泊まる程度の距離のある関係がいい」と思う人もいるだろう。
中居は、そうした関係のありように鈍感だったのかもしれない。
その結果、ひとりよがりの正義として、何度もしつこく「ただの恋愛関係だった」と言い続け、メタ認識を拒んでいるのかもしれない。
ただし、メタ認識(メタ認知)をできなくするのは、悪意からとは限らない。
「こども食堂」の名付け親で、13年前に東京都大田区で「こども食堂」を始めた近藤博子さん(65歳)は、「『こども食堂』の大きな流れからは、一線を引く」とfacebookに投稿した。
ルポライターの杉山春さんが取材した文章から、近藤博子さんの言葉を拾ってみよう。
「月に1度や2度、あるいは週に1度、食事を提供しても、おコメを2キロ、3キロ渡しても、子どもの貧困は何も変わりません。
これまでこども食堂を続けるなかで、子どもの状況はますます苦しくなっている現状を目の当たりにしました」
「こども食堂の基盤は脆弱です。お金にも人にも困らないところはごくわずか。
こども食堂の助成金もありますが、(全国に)1万カ所もあると、なかなかの競争率です」
「国民の善意を利用して、これはいいことですから、みんなで頑張ってください。頑張りましょうと。あおってきたんだなと私は思います」
実際に、子ども食堂を運営してきた当事者の言葉は重い。
ボランティアとは、時間も金も体力も出て行く一方なので、活動を続けるには寄付だけを頼るわけにはいかない。
こうしたことは、やってみれば誰でもわかることなので、社会起業(ソーシャルビジネス)というものが世界中に広まっていき、約20年前から日本でも増えてきた。
よのなかには、貧困や虐待など深刻な社会的課題があるのに、政治は満足に解決できずにいる。
だから、民間で解決できることは民間でやり、しかもビジネスを通じて収益を生み出し、解決に取り組む人の人件費などの解決資金を調達できる仕組みを作り出そうという試みだ。
僕は90年代から子どもの虐待や家出を取材していたので、いくら稼いでも金と時間、体力が飛んでいった。
だから、21世紀に入る頃には、解決ビジネスの仕組みを作り出す社会起業を取材するようになったのだ。
居場所が無くて困っている子どもと、その子を助けたい大人。
この2人が向き合っているだけでは、「居場所を作ればいい」という対症療法にすがることになり、子ども食堂を作っても資金不足で活動終了になってしまう。
そこで、助かりたい子どもと助けたい大人という2人の関係に閉じることなく、彼らを外から見るメタ認識ができれば、ビジネスの論理でいう「顧客のニーズをちゃんと聞く」という基本姿勢を利用できる。
さまざまな事情で家にいられない子は、べつに児童相談所に保護されたいわけではないし、大人が用意した居場所を求めているわけでもない。
それは、どんなに行政が排除しても同世代のいるところに集まってくるトー横やグリ下などの10代を見れば、明らかなことだ。
良かれと思って居場所を作るより、まずは自分が救いたい当事者の本音が聞きだせる関係を作るのが先だろう。
若者の場合、救われたくない子だっている。
大人が先回りした居場所が煙たい子もいる。
大人にとっての健全育成に導こうとする大人を警戒する子もいる。
アンケートには、大人が望む良い子を演じて、優等生的な意見しか書かない子もいる。
生きづらい子たちの話を、彼らが本音を素直に言えるまでつきあうには、何年も辛抱強く、彼ら自身が自分の本音を言える日を待つ必要があるのだ。
現代の子は、傷つくことでしか現実を学べず、傷つきながらメタ認識を覚えていくしかない状況に置かれている。
大人もそうだったはずだ。
誰かからアドバイスを受けても、真っ先にできない理由を考えていないか?
「私は自己評価が低いからムリ」とか、「自信がないから」で思考停止し、挑戦を始めないまま、生きづらい人生をいつまでも続けている大人は多い。
たとえ自分一人ではできなくても、仲間を作ればできるようになったり、自分以外の有能な人と手を組めば、これまで抱えてきた問題を解決できる。
たいていのことは、本を読んで勉強すれば、できなかったことでも、できるようになる。
人生80年もあるのだから、時間をかければ解決も進むのに、挑戦を始めることすらしないとしたら、その人は生きづらさをいつまでも抱え続けるだけだろう。
せめて学校教育や報道の中で、メタ認識を育て上げ、自分と生きづらさを外から見るまなざしを獲得してほしい。
生きづらさの原因は、個人の属性にあるのではなく、社会の側にある。
古い常識や法律などの生きづらい社会の仕組みを変えたり、自分を生きやすくする仕組みを考える方が、それ自体、生きてて楽しい時間を増やせるように思う。
そこで、みなさんに質問したい。
あなたが貧困家庭の子どもだったとして、理想的な子ども食堂を考えるなら、それはどんなものだろう?
たとえば…
●学校の授業の一環としてどんな子でも参加でき、芸を披露すれば、その場で大人から投げ銭してもらえる(芸は歌でも作文の朗読でも何でも)
●農作業を1時間だけ有償ボランティアとして手伝ったら、その金で子どもでも誰でも1食無料で食事ができる
●料理学校の生徒がボランティアとして調理し、食事代は食材費に回し、地域の企業に年間スポンサードしてもらって運営責任者の人件費にする
●巨大なモニター画面でゲームが無料で遊べるようにし、夜10時までなら親が迎えに来るまで仲間といられる
●子どもがそれぞれの能力で稼げる場所にし、その一部を運営費に充てる。高齢者を客にする「孫カフェ」や子どもが一緒に遊んでくれるサービスなど
あなたの意見も、以下の動画のチャット欄やコメント欄に書いてほしい。
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