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続報!! 娘と性交した父の無罪 司法の信頼ダウン

 この1,2週間、ネットでも新聞でもバズっているこの事件。
 まずは、最初の記事を読んでおこう(※静岡の無罪判決の記事はコチラ)。

娘に準強制性交で起訴の父に無罪 「抵抗不能」認定できず
産経新聞 2019年4月4日
 平成29年に愛知県内で抵抗できない状態の実の娘=当時(19)=と性交したとして準強制性交罪に問われた男性被告に、名古屋地裁岡崎支部が「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪判決(求刑懲役10年)を言い渡していたことが4日、分かった。判決は3月26日付。
 公判で検察側は「中学2年のころから性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張。
 弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論した。
 鵜飼祐充(うかい・ひろみつ)裁判長は判決で、性的虐待があったとした上で「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態だった」と認定した。
 一方で被害者の置かれた状況や2人の関係から抵抗不能な状態だったかどうか検討。
 「以前に性交を拒んだ際受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」と指摘した。

 裁判長は、「娘は性行為に同意していなかった」と認定し、「父親は拒んだら暴力を振るうなど父親の立場を利用して性的虐待を続けた。娘は抵抗する意思を奪われ、専門学校の学費の返済を求められていた負い目から精神的にも支配されていた」と指摘したうえで、強姦では無罪にしています。

 この裁判の原告側の名古屋地検の築雅子・次席検事は、「上級庁とも協議の上、適切に対応したい」とコメントしています。

 ネット上では、鵜飼裁判長のこれまでの判決を引用し、裁判長自身の個人的な資質を問う動きもあります。

 弁護士の伊藤和子さんは、Yahoo!個人で判決文を引用しながら、この判決の不当性を丁寧に説明しています。

 判決文では、「抗拒不能の状態にあったかどうかは、法律判断であり、裁判所がその専権において判断すべき事項」とし、「鑑定意見などによって裁判所の判断は左右されないんだぞ、という姿勢」と伊藤さんは分析しています。
 判決文には、以下のような文章もあったそうです。

本件各性交時において抗拒不能状態の裏付けとなるほどの強い離人状態(解離状態)にまで陥っていたものとは判断できない」

「性交に応じなければ生命・身体等に重大な危害を加えられるおそれがあるという恐怖心から抵抗することができなかったような場合や、相手方の言葉を全面的に信じこれに盲従する状況にあったことから性交に応じるほかには選択肢が一切ないと思い込まされていたような場合などの心理的抗拒不能の場合とは異なり、抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するにはなお合理的な疑いが残るというべき

 簡単に言うと、殺されるような恐怖を覚えて抵抗できなかった場合や、離人状態だった場合、セックスする以外に選択肢がないと思い込まされていた場合でない限り、抵抗や拒否ができたはずだ、と鵜飼裁判長は判断したわけです。

 この裁判は、被害女性が19歳当時の準強制性交罪を問うものでした。
 しかし、この裁判長は、中2からの性的虐待による心理的影響を重く見ず、19歳の時点では抵抗・拒否の余地があると考えたわけです。
 もし、これが中2から18歳までの性的虐待に関する淫行罪を問うものだったら、どうなっていたでしょうか?

 20075月、愛知県で、妻子のある男が当時17歳の少女と性的関係を持って青少年保護育成条例違反に問われたが、互いに恋愛感情を抱いていたことから「『淫行』に相当するというには相当な疑問」として簡裁が無罪判決を出しました。
 しかし、男が国と愛知県を相手取って賠償訴訟を起こしたところ、高裁は「真剣度の乏しい交際だった」と請求を棄却し、2012年に最高裁でも男は敗訴

 これは、刑事裁判で無罪判決が出ても、民事裁判で救われることもある、という単純な話ではありません。
 条例における淫行罪は、親を含めてすべての人による加害に対して罰しているため、地裁や簡裁が無罪判決を出した判例があろうと、民事の敗訴を高裁・最高裁が出している以上、この敗訴をその後の刑事裁判でも考慮しておく必要があったのではないでしょうか?

 もっとも、こうした冷静な判断をしても、感情論として「無罪判決を不当だと怒るなよ」といさめようとする人たちはいます。

 保守系オンラインニュース「ハーバー・ビジネス・オンライン」では、『相次ぐ強姦の無罪判決に怒りの声。報道を読んだだけで感情的に熱狂する世論の危うさも』という記事を「HBO取材班」名義で発表しました。

 その記事には、「インターネットで無罪判決への批判が広がり、裁判長がつるし上げられる……。こうした事態を憂慮する声が、法曹界から多く出ている」とあります。

 「多く」とは、どういう根拠に基づいているのでしょうか?
 全国の弁護士や検事、判事の何割が「事態を憂慮」しているのか、書かれていません。
 この記事で紹介されているのは、田岡・佐藤法律事務所(香川県丸亀市)の佐藤倫子弁護士、一人だけです。

 全国の弁護士を代表しているわけではない佐藤弁護士のコメントを一部引用します。

感情論に流されてはいけないと思います。刑事裁判は、検察官が裁判官に判断を求めた具体的な公訴事実について、その事実があったのか、あったとして犯罪に当たるかどうかを判断するもの。検察官が公訴事実について充分に立証ができなければ、罪には問えません。刑罰は人の自由を奪い、殺すことさえできる究極の暴力装置。そのため、有罪判決を下すには、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の、高度の立証がなされなければなりません」

 一読しただけで納得してしまう人もいるようですが、よくよく考えると、ツッコミどころ満載です。



●司法への信頼が揺らぐ方が、裁判官のオタオタよりはるかに危険

 まず、今回の判決を不当だと怒っている市民の考えは、感情に任せただけの「べき論」とは限りません。
 加害者・被害者のトラブルにおいて、江戸時代までは仇討が合法でした。
 しかし、明治以降、近代法では個人の暴力をすべて禁じ、その代わりに国家(統治権力)が暴力を独占して法に基づく裁定で決着させることにしたのです。

 法制化の経緯はどうあれ、仇討禁止が法律上に明文化され、今日まで続いてきたのは、国民自身が「私の代わりに法が納得のいく決着をつけてくれるならとりあえず信頼しておこう」と悔しい感情を自制してきたことで、司法の判断にゆだねてきた結果です。
 法が被害者の自分の悔しさをちゃんと晴らしてくれる、と信じられればこそ、仇討をやめる気持ちになれたのです。

 逆に言えば、裁判所の判決が信用できないと思えば、今でも逮捕覚悟で仇討をする人はいますし、不当判決が増えれば、裁判を待たずに仇討に走る人も増えるかもしれません。
 多くの人が不当だと感情を強くゆさぶられるような判決を地裁レベルで増やすことは、仇討や犯罪を増やす恐れがあるわけです。

 中2の頃から性的虐待され、判決で加害者の父親が無罪になり、有権者の市民が議会に対して「早く法改正しろ!」と迫ることもなく、判決に対する怒りや悔しさの声も上げないのだとしたら、それこそ子どもたちにとって踏んだり蹴ったり。救いも癒しもありません。

 つまり、この判決に対して感情的にならない方が、仇討や犯罪を増やす恐れを現実のものにしてしまうのでは?

 佐藤弁護士は同記事の結びで「裁判官が委縮し、冷静な判断ができなくなったらどうするのでしょうか。とにかく落ち着いてほしい」と呼び掛けていました。
 落ち着いてほしいのは、あなたですよ、佐藤さん!

 法廷は基本的に公開され、注目の裁判にはテレビや新聞の取材も入って判事の名前も報道されるのが通例。
 なのに、世間から批判されたぐらいで冷静な判断ができなくなるような裁判官が1人でも法廷にいるとしたら、それこそとんでもない大問題では?

 もし裁判官が、怒りの感情を一般市民に与えてしまうことを覚悟して判決を出したなら、自ら記者会見を開いて、多くの人が納得できるだけの説明を丁寧にすればいいのです。
 それすらしないところを見ると、鵜飼裁判長には世間を納得させられるだけの判決根拠をもっていないという後ろめたさがあるのかもしれません。

 淫行条例を定めている愛知県の議会が、この判決に対する反対決議を行い、鵜飼裁判長に議会で説明を求めることになったら、鵜飼裁判長には堂々と議会に現れて釈明してほしいところです。
(もっとも、愛知県の県議会議員や知事が、どれほど子どもの人権に関心を持っているか、三権分立としての議会の機能を理解しているかを考えると、期待しにくいですね)

 日本の政治家や裁判長に、「日本も批准しているユニセフの子どもの権利を4つ言ってみろ」と迫ったら、即答できる人はほとんどいないでしょう。
 それどころか、殺人事件の過半数が親族間の事件であることも知らない人が多いはず。
 日本では、一番弱い子どもが政治でも司法でも行政でも救われないままなのです。


 次に、「刑罰は人の自由を奪い、殺すことさえできる究極の暴力装置」であることは真実ですが、裁判官の出す判決そのものが「被害者の自由を奪い、殺すことさえできる究極の暴力装置」であることも同時に言わなければ、フェアではないでしょう。

 佐藤弁護士は、自分の子どもが自分の夫による性的虐待の被害者でも、その子の負い続けてきた大きな苦しみより、有罪判決で被るかもしれない被告(夫=子どもにとっては父親)の苦しみを最優先に考えるのでしょうか?

 今回の場合、被害者の女性が無罪判決に大きなショックを受けて精神のバランスを崩し、自殺してしまったとしても、不思議ではありません。
 控訴が決まっている以上、高裁そして最高裁まで持ち込まれる日々の中で、被害女性が周囲から好奇の目にさらされることは明白であり、その苦しみを温存・拡大させるきっかけが一審の無罪判決であることも明白です。

 それでも鵜飼裁判長は、「自分には責任がない」とか「仕方ない」と言いそうですが、それが本当に健全な司法なのでしょうか?

 現実に、親からの度重なる虐待に耐えかねて自殺する子どももいれば、親を刺したり、殺してしまった人もいます。
 彼らにとって、裁判官が被害者の苦しみを過小評価して認知したり、加害に対する抵抗や拒否の余地を不当に大きく見積もる判断をすることは、司法への信頼を失わせるのに十分でしょう。

 今この時も、親から性的虐待を受け続けている子どもたちが、全国に大勢います。
 彼らは、親権者に食事や寝床、進路を人質にされているため、抵抗や拒否もできません。
 その子らの目には、今回の無罪判決は絶望的に映っていることでしょう。
 彼らが報道されないままひっそりと自殺しても、鵜飼裁判長は「俺には関係ない」とうそぶくのでしょう。
 そうした独善的なふるまいによって、新たな犯罪被害者が増えてしまっても、鵜飼裁判長は自分の責任や罪を自問しないのかもしれませんね。

 自分の出した無罪判決が全国の市民から怒りをぶつけられる結果になることは、鵜飼裁判長にとっては想定外だったのでしょうか?
 それなら、あまりにも世間知らずです。
 想定内だったとしたら、世間の声をものともしない「勇気」ある判事なのかも。
 僕だったら、判決の夜から恐ろしくて家の外を出歩くのもできなくなるでしょう。

 3番目に、中2からの性的虐待の被害について、裁判長自身が「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態」と認定したのに、その影響の程度を医者でもない裁判長が判断し、離人状態でもない限り、抵抗や拒否ができたと考えた点です。

 離人状態でなければ、抵抗や拒否のできる余地があったと判断するなんて、僕にはさっぱり理解できませんが、鵜飼裁判長が「子どもの安全は最優先と考えない」とする現実の社会通念と「子どもの権利は現行法で守られていない」という法解釈に基づいて無罪としたなら、はっきりとそう説明すべきだと思います。

 判決の正当性の一部を説明する際、「法律がそうなっているから」で済む場合があります。
 法律の解釈に正当性があり、その正当性に基づく判決を不当に感じる場合、法律を変えるよう、市民は主権者として政治家や立候補者に働きかけていくしかありません。

 しかし、今回の場合、素人の一般市民の感情を逆なでする内容の割には、判決文でもあまりに説明不足でした。
 「わかる人にわかればいい」という作法は、法曹界の外にいる一般市民への居直りです。
 裁判長が多数派に支持されない判決を出す場合、せめて素人が「理解できる」程度の説明をしなければ、司法は多くの市民に信頼されなくなり、新たな犯罪を自ら動機づけてしまう機会を作り出してしまっているのと同じです。

 それに加えて残念なのは、弁護士自身が「私の代わりに法が納得のいく決着をつけてくれるならとりあえず信頼しておこう」という市民感情より、世間を怖がるばかりのチキンな裁判長の感情を重く見るコメントを平気で発表したことです。

 佐藤弁護士は、世間の怒りを出す見ただけで冷静な判断ができなくなるような裁判官を一掃したくても、弾劾裁判があまりになまぬるいという法曹界の「不都合な現実」にこそ目を向けるべきではありませんか?
 それとも、市民感情を否定した後で「裁判長にも感情がある」と法曹界の身内をかばうのでしょうか?

 「無自覚な世間知らず」の日本人は、組織内の内規(ローカルルール)が社会全般にも通用するかのような勘違いをしがちです。
 憲法違反のブラック校則もあれば、労基法違反で働かせるブラック企業もあります。
 今回の「虐待無罪」の判決は、一般市民には理解しがたい判決について説明する責任すら無視するブラック判決もあることを、改めて教えてくれました。

 僕は大人げない人ですし、感情もあって、それをコントロールできる人間ですので、鵜飼裁判長にはこう言いたいです。

「おまえも『父親』を名乗る男から同じ被害に遭ってみろ」

 被害の後、あなたには、検察側の証人になるのを拒否し、被告側の証人として出廷し、自分を害した男に堂々と「あなたは無罪です!」と叫んでほしいです。
 被害者のあなたは離人状態でないのですから、当然、自分を性的虐待した男を無罪にしたいですよね?
 それが、感情論ではなく、論理的に正しいあり方でしょ?

 市民感情をふまえずに法解釈や判決の論理が成り立つと考えるのは、司法関係者のおごりです。
 客観や中立の立場は、裁判官の恣意的な判断で成り立つわけがありません。

 形式論理に居直れば、屁理屈にしかならないまま、その屁理屈で安っぽい判決が出るだけです。
 判決の安っぽさに怒るのは、きわめて健全なリアクションであり、まっとうな市民感覚だと、僕は思います。

 最後に「邪推」を書いておきます。
 鵜飼裁判長、あなた自身が子どもの頃に虐待されて感情を失ったのではないですか?
 そして、今もなお「無自覚な世間知らず」として法曹界の内規の中にひきこもり、形式論理的に感情を排した仕事を続けているのでは?

 あなたが世間を怖がって説明の機会を自ら作らないままなら、僕にはそうとしか思えないのです。
 ぜひ、親に虐待されても勇気をふり絞ってつらい経験を書いた100人の手紙集『日本一醜い親への手紙』を読んで、ご家族にとって誇れる裁判長に成長するか、判事をおやめになってください。

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