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学校の先生が精神疾患を理由に仕事をやめる事例が、史上最悪の数字を示した。
共同通信の記事(2026年7月22日付)を読んでみよう。
記事によると、2024年度に精神疾患を理由に離職した公立の小中高校の教員は計1319人、過去最多を更新した。
文部科学省の学校教員統計調査によると、前回21年度調査から369人増え、初めて1000人を超えたそうだ。
この1319人という数字は、定年退職を除く離職者1万5540人の約8.5%に上り、文科省は「教員のメンタルヘルス(心の健康)は喫緊の課題で、対策に取り組む」としている。
この調査は3年に1度実施され、文科省は教員の待遇改善を図ろうと、残業代の代わりに支給する「教職調整額」を今年1月に基本給の4%から5%に引き上げた。
文科省の官僚は、学校現場の教師は1%程度の給料アップで仕事をやめたりしないと考えているようだ。
共同通信の記事には、次のような厳しい現実が書かれている。
教員を巡っては、業務量増加や民間企業の採用活動早期化などを背景に志望者が減少。
退職や休職で生じた欠員を埋められない「教員不足」が各地で深刻化し、現職教員の負荷がさらに高まる悪循環も起きている。
確かに、学校の先生は半世紀前と比べて、書類づくりやモンスターペアレントへの対応など、多忙を極めているし、少子化の影響で新たに先生になる人材も減ってしまうことから、今後もますます「給与に見合わない超多忙の職種」になっていくだろう。
ただし、それは大人どうしで解決できることだし、大人の宿題の範囲内だ。
その意味をかみくだくと、日本でいう教育とは、国家が子どもに教えたいことを教えるために続けられてきた営みであって、成長したい子どもが望んだことを教える営みではないってことだ。
義務教育である小中学校はもちろん、高校でも、テストでの正解は一つであり、点数によって優秀さが序列化され、点数の良い奴が偏差値の高い大学に入り、国の省庁や大企業に雇われて、30代で年収1000万円の仕事ができるようになる。
一方、学校での勉強科目の成績が悪いだけで、大学に入れず、高卒どまりで、低い年収が一生続き、老後は年金だけで暮らせず、貯金も目減りしていき、長生きをすればするほど貧困と飢えの恐怖の日々がいつまでも続く国なのだ。
そこで考えてみてほしい。
既に大学は全入時代だ。
「とにかく大学に入りたい」と希望する高校生のうち、6割までは大学に入れる。
偏差値の低い大学や、数年後には倒産してしまう大学であれば、ギリギリ入れる。
しかし、そうした底辺の大学にしがみついて、大卒の学歴を得ても、大企業や国の省庁には入れないし、実際に就活して入れる会社は中小企業で、給与の額面は高卒とさほど変わらない。
田舎の底辺大学を卒業して、東京の有名出版社に入って編集者になろうと思っても、それは日本では夢の話なのだ。
有名出版社が正社員として底辺大学の卒業生を雇うことは、ありえないのだ。
そうした結果になろうとも、大学全入時代の今、高校生の6割しか大学に入れなくなっているのに、残り4割の高校生に対して「おまえは低収入で雇われるのを運命だと思って一生貧乏のままでいろ!」と、あなたは言えるだろうか?
言えないだろう。
こうした学歴社会の仕組みは、昔は見えにくいものだった。
しかし、インターネットが当たり前に使える今日、新聞紙は見なくてもYahoo!ニュースは見るし、図書館で本を読まなくても知りたいことはGoogleやAIが教えてくれる。
こんな便利な時代では、勉強が苦手な児童・生徒にとって教室は、人生格差を浮き彫りにする場所だし、残酷な現実を突きつけられる場所だ。
学校の先生は、全員大卒者であること。
クラスメイトの半分以上が大卒者になること。
低学力層の貧困は老後まで取り残されること。
そうした現実の残酷さをインターネットを通じて知ってしまうと、先生がいくら真面目に授業をやっても、勉強意欲なんて湧きあがらないだろう。
それどころか、雇われて低賃金の仕事に導かれるために学校に通うことはバカバカしくなるし、フリースクールに行って友達を見つけても自分の将来に希望が持てないのは同じだから自宅に引きこもりたくもなるだろう。
これでは、生徒はもちろん、先生たちも救いようがない。
かといって、東京大学などの優秀な学歴ばかり集めて構成される文科省やこども家庭庁の官僚は、大学に入れずにいる子どもたちの苦しみなんて、1秒たりとも感じたことはない。
では、政治家はどうかといえば、「低学力の人たちの所得を増やそう!」「東大卒と同じ程度の所得を得られる仕組みを作ろう」なんて政策を聞いたことがあるだろうか?
ないはずだ。
企業は安い賃金で働いてくれる人を望んでいるので、最低賃金の額面を上げるような政治家を支持しないからだ。
結局、公立校が教育を通じて教えてきたのは、勉強科目が苦手な子どもは低賃金労働になる職種の人材としてガマンし続けろ、ということだ。
だが、その仕組みは既に子ども、そして親にも十分、知られてしまった。
雇われているうちは、貧乏から抜け出せないままだってことに気づく人が増えてしまったのだ。
それなのに、官僚が学校教師の仕事を増やし、子どもたちにも教師への不信感を与えてしまえば、授業は成り立たず、現場の教師の精神は、真面目な人ほど壊れてしまうだろう。
そうした背景が、精神疾患で仕事をやめる公立校の教師が増え続けている現実の裏にある。
それでも、公立校では雇われて働くための社畜教育しか提供しないし、先生自身も「雇われて働いたことしかない」人材なので、何をどう変えればいいか、わからないだろう。
教師の職場環境の改善は必要だが、教育内容が雇われることを前提にして、自分のやりたい仕事を自分で作る方法を教えないままなら、おそらく文科省や政治家に期待し続けてもきっと意味がないのだ。
自分にとって大切なことは、学校の外で自ら学ぶ。
そうしたメッセージを、大人たちがドンドン、インターネットで若い世代に伝えていく必要があるだろう。
手塚治虫はマンガの学校に通ったか?
スマホを作ったスティーブ・ジョブズは、IBMの社員になろうとしたか?
いずれも、「NO!」だ。
自分がやりたい仕事を作るのに大事なことは、誰かに教わることより、自分が知りたいことを自分で調べて学ぶってことなのだ。
自ら問いを立てて、自ら学ぶ。
それが基本姿勢の子どもが増えれば、子どもは学校や先生に期待を持たなくなるだろう。
先生に「社畜教育をやめて授業内容を変えてほしい」と望むより、先生への期待をやめる方が、先生への不信感を避けることができ、先生のメンタルを傷つけないありかたのように思う。
ただでさえ少子化が進んで学校が廃校になり、先生の働ける現場が減っていくのだから、そこで先生のメンタルヘルスを考えるなら、学校以外の場所における子ども自身の学びを大事に考える時代に入ったと言えるだろう。
実際、僕ら大人も子ども時代を振り返るなら、学校で教わったことよりも、学校の外で学んだことが意外と多いのではないか?
マンガやアニメ、映画や流行歌など、学校の外側に、自分にとっての先生が存在したように思うのだ。
小学生時代の僕にとって、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のセリフは、ものすごい説得力を持っていた。
地球を放射能爆弾で人類が住めなくなるように攻撃したガミラス星を、宇宙戦艦ヤマトは壊滅させる。ふつうは、自分を攻撃してきた憎い相手と戦い、相手に勝てば喜ぶだろう。
しかし、ヤマトの乗組員で、主人公の古代進は、ガミラス星人が1人もいなくなった星に立ち、こう叫ぶのだ。
「俺達は、小さいときから人と争って、勝つことを教えられて育ってきた。学校に入るときも、社会に出てからも人と競争し、勝つことを要求される。
しかし、勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる?
負けた者は幸せになる権利はないというのか。今日まで俺はそれを考えたことはなかった。
俺は悲しい、それが悔しい!
ガミラスの人々は地球に移住したがっていた。この星はいずれにしろお終いだったんだ。
地球の人もガミラスの人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。
なのに、我々は戦ってしまった。我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か。糞でも喰らえ! 」
こんなセリフを、中学受験の前に知ってしまった小学生の僕にとって、「受験戦争なんてやってる場合じゃない!」と思ったものだ。
何で自分だけ幸せになろうとするのか?
そういう問いかけをしない限り、「自分が勝ちさえすれば問題ない」で思考停止しまうだろう。
そういう浅ましい人間には、なりたくないと思ったものだ。
僕にとっては、学校の先生より、アニメの方が心に響く言葉を教えてくれる先生だったのだ。
さて、あなたにとっての先生も、学校の外にいっぱいいたのではないだろうか?
学校では教えてくれないことを、あなたに学ばせてくれたのは誰だろう?
