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■文化的虐待 ~金の切れ目が親との縁の切れ目

 子ども虐待は、身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・ネグレクト(育児放棄)の4つとされているが、現実にはこれ以外に経済的虐待や文化的虐待などがある。

 文化的虐待は、戦争時に占領した相手国の文化を否定し、軍事力を背景に自国の文化を押しつけるものとして卑劣な行為だと歴史に記録されている。
 力づくで弱者の考えをおとしめ、ひれ伏せさせる恐怖は、勤務先=正社員、教師=生徒など、力関係のあるところなら常につきまとう。



 子ども虐待における文化的虐待については、以前のブログでも書いた。
 親の考えが学校や一般社会で教わる常識とかけ離れているために、家族と社会の間にある文化(価値基準)のギャップに子どもが宙づりにされ、家庭にも社会にも居場所を感じられなくなり、いじめに遭いやすくなったり、精神病や反社会的な行動へ導かれる虐待のことだ。

 たとえば、親が宗教の熱心な信者である場合、宗教団体が「友達を作らないように」という教えを信者に伝えれば、家庭ではそのようにしつけられる。
 一方、学校では「友達と仲良くしましょう」と教えられる。

 すると、子どもは家では「まさか友達なんか作っていやしないでしょうね?」と親に問いつめられ、学校では級友から「おまえの家の宗教だと友達を作っちゃいけないんだろ」というまなざしで距離を置かれてしまうのだ。

 これと同じような文化ギャップによる子どもの孤立は、親がヤクザや前科者、精神病者、障がい者、外国人、極右・極左の思想の持ち主などであっても起きやすい。

 親と子では、そもそも体力や知力、経験値や社会的地位などの点で圧倒的な力の差があるため、ただでさえ主従関係になりやすいうえに、子どもは親権制度によって一方的に保護監督され、発言権や人権が法的に奪われている。
 親という占領軍に植民地にさせられたようなものだ。

 日本の子どもは、制度によって親に独占的に支配される関係の中で、文化的虐待が運命づけられている。
 親の文化を一方的に押し付けられても、子どもは世間を味方にできない。

 「学校で級友にいじめられ、登校を拒否したい。それができないなら死にたい」と切実に考えても、親が不登校を問題視し、「心配」の名の下に子どもの気持ちを否定する文化的虐待は、よく見られるものだ。
 だから、「2つの異なる文化(価値基準)のどちらかが正しいのか?」という問いかけは、支配・被支配の関係の前ではむなしく響く。

 実際、親が精神病でも病院に行きたがらず、めちゃくちゃな言動を子どもの前でしていても、子どもは親をどうすることもできない。
 理不尽な命令にも従わざるを得ず、唇をかみしめることしかできない。

 親権を持ってる親と、主従関係による被支配を強いられる子ども。  この構図は、マシンガンを手にしてる人と、その前で額を地面にこすりつけて従うしかない丸腰の人をイメージさせる。  この圧倒的な力の差を前に、子どもは親と対等に話すことすらできず、人権も守られず、自尊心も奪われかねない。

 今日、日本の若者の多くがこう嘆く。
 将来に希望を感じられない。  自己評価が低く、自分が嫌い。  雇われることでしか生きていけない。  自分がそんな若者だと思うなら、自分がどんなふうに親に育てられたのかを振り返ってみよう。  認めたくないだろうが、親から虐待された子は、日本ではあまりにふつうすぎる存在なのだ。

 親から虐待され、尊厳を奪われて育つと、支配されることが「ふつう」になり、自分の不幸を低く見積もってしまう。  だから、毎日父親にレイプされ、中絶までさせられてきた娘ですら、「でも私を育ててくれたから親を憎めない」と言うことがある。
 虐待は、子どもに被害を過小評価させ、虐待された自覚を遠ざけてしまうのだ。
 震災後に仮設住宅に住み、変わりゆく生活と風景にすっかり慣れてしまった頃には、とんでもない被害の震災が自分を変えたことすら実感できなくなっていくように…。


●虐待から自主避難するために、起業を学んでおこう!

 さて、文化的虐待に限らず、虐待が子どもから奪うものの一つは、自尊心だ。
 自尊心とは、自分の心身や将来、友人関係を当たり前のように大事に思える気持ちのこと。
 自尊心を奪われて育つと、自分にとって価値あるものが何なのかがわからなくなる。

 もっと正確に言えば、価値の高い・低いを自分で判断することに自信がなくなる。
 価値を判断する基準そのものが奪われてしまえば、親や教師、いじめっ子など「自分以外の誰か」が強いてくるルールに反抗できなくなるし、客観的に見れば不当な扱いをされても反抗すること自体に罪悪感を覚えるようになってしまう。

 そうなれば、もう、話し合うことも、自分の意志で動くこともない人形と同じだ。
 誰かに何かを命じられて動くことが楽だと感じ、自分の意志で自分自身の将来を考えるのも面倒になり、周囲から期待される人間像を演じていくだけの人生になりかねない。

 文化は「何に価値を発見するか」によって作られるので、文化的虐待によって居場所を奪われ、価値基準を見失い、魂の漂流者になってしまった人にとって、人間に戻る道は「判断の主体性」を獲得する戦いになる。

 自分の人生は自分だけのものであり、自分の人生では自分自身が主人公であり、自分自身にかかわる価値はすべて自分が自立的・主体的に判断していいのだという気づきを得るために、孤独な戦いを強いられることになるのだ。

 判断の主体性を獲得すればこそ、虐待であるかどうか、暴力であるかどうかを判断する権利を持つのが他の誰でもなく、被害を受けた自分だけだと気づく。
 親というものが、子どもが認めない限り、親ではないことにも気づく。

 しかし、その気づきを得るためには、越えなくてはならないハードルがある。
 それは、自分をおとしめた親子関係を、客観的にとらえること。
 ありていにいえば、自分を育ててきた父や母を、親子関係から切り離し、「ただのおじさん」「そのへんのおばさん」として見ることだ。

 たとえば、父親なら、そのおじさんがどういう親元で育ち、兄弟はどんな感じで過ごし、どんな学校に通い、どんな仕事につき、どういう経緯で母と出会い、どんな恋愛の果てにいくつの時に結婚し、自分を生むことになったのか?

 それを直接親に尋ねるか、親せきに質問するなどして、少しでも知るようになると、「ただのおじさん」としてのキャラが見えてくる。

 もっとも、毒親ほど自分の素性や過去を子どもに言いたがらない傾向があるが、その人がふだんどんなことを話題にし、どんなテレビ番組を好んで視聴し、どんな雑誌や本、音楽、服、趣味などの文化に親しんでいるかを具体的につかんでおこうとするだけでも、その人の文化(価値基準)は少しずつはっきりと浮かんでくる。

 たとえば、母親が7人兄弟の末っ子で、兄弟の中でも「できの悪い子」と思われてるふしがあり、口癖は「どうせ~できるわけがない」で、趣味らしい趣味もなく、家に友人を連れてきたこともなく、家政婦のように家事だけを粛々とこなし、空き時間はテレビばかり見て過ごす面白みもないおばさん、というぐあいに、彼女の現実のありのままの姿を受け入れることを試みてみよう。

 親というフィルターを外して、その人を見ると、とても積極的につきあいたい相手とは思えなくなるかもしれない。
 そもそも、親は時代遅れになる一方の中高年だし、記憶力も体力も劣化していくだけの存在だ。


 若くて伸びしろのある子どもの方が、新しい時代の文化と情報を吸って生きている。
 人権も、男女平等も、LGBTへの関心も、インターネットなどのテクノロジーの利用も、仕事におけるやりがいも、人生における生きがいも、先に老いてゆく世代にとっては「ぜいたく品」にすぎない。

 同時に、彼らにとっては、親が子どもを保護監督の名の下に支配することは自明のことなので、自分が子どもに何をしてきたかを反省することすら難しい。

 しかも、昔は中卒・高卒が当たり前だったが、昨今では2人に1人は大学へ行く。
 これだけでも、親と子の間に大きな文化ギャップが生まれ、摩擦の原因になっているのに、親権という強大な権力を背景に子どもを強制的に従わせることができる親たちは、「私は虐待していない」と加害者であることを簡単に否認できるのだ。

 自分の加害者性を認めなくても、日本の親は世間から叱られることもない。
 被害者であるわが子は、自分の力の前では無力でちっぽけな「チビ」にすぎない。

 そういう強い立場にいくらでも居直れる人間を相手に、自分の気持ちを理解してもらおうと思えばつらいだけだ。
 ましてや長く一緒に住むようになれば、子どもの方が自分自身を嫌いになってしまうだろう。

 しかし、虐待かどうかを決めるのは、法律でも世間でもなく、子ども自身だ。
 子育ての結果の合否判定をできるのは、子どもだけなのだ。

 だから、虐待された自覚がないまま、老いた親の介護に対してもやもやとした抵抗感を覚える人は珍しくないし、大人になってから親との同居に耐え切れずに突然に家出する人も少なからずいるし、そこまでするつもりもなかったのに親を殺してしまった人もいる。

 小室直樹氏は、「親子は基本的に殺し合いの関係」と喝破していた。
 だからこそ、子どもを経済的に自立させることは、殺し合いを避ける知恵なのだ。
 子どもがお金を得る手段さえ学んでしまえば、親を不要にできる。
 社会が親子関係における不幸を減らそうとするなら、子どもに小さい頃からお金を稼ぐスキルを学べるチャンスを提供する取り組みが有効だし、最優先課題かもしれない。

 敗戦直後、日本人があまりにも子どもを売り飛ばしたり、強制労働をさせたために、子どもが自由に働くこと(=雇われること)が法的に制限されてしまった。

 だが、自分で自分の仕事を作り出す起業なら、小学生の高学年から実践的に学べるし、実際に中高生の起業家は日に日に増えている。
 民間で小学生向けの起業塾を立ち上げる動きも、各地で始まっている。
 時代は常に変化し続けているのだ。

 学校に行くことは雇用にありつく手段の一つにすぎないが、起業なら親からの経済的自立をめざすのに十分な時間が10代には与えられている。
 親からの虐待によって傷つけられる日々から自主避難するためにも、稼ぐスキルを実践的に学んでおくことが安心への近道だ。

 親による虐待から自主的に緊急避難する(=家出する)にも、金は必要になる。
 家出も、起業も、大人になってからでも遅くはない。
 自分の人生くらい、自分のものにしようじゃないか。
 同じ苦しみを負った仲間は、一人また一人と歩き出してる。

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