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子ども虐待防止策イベントについて



 『子ども虐待防止策イベント』は、虐待サバイバーの声を政治家に伝え、新しい虐待防止策を議会にはかってもらうという趣旨で開催されます。

 このイベントは、フリーライター&編集者の今一生が企画とイベント・ディレクターを務め、開催マニュアルに基づくイベント事業を受託した全国の地元市民チームが運営しています。

 これまで虐待防止の制度設計では、虐待サバイバーは蚊帳の外に置かれていました。
 その結果、虐待の相談件数ばかりを増やし、虐待自体は過去30年間、一度も減らせませんでした。
 虐待に苦しんできたサバイバーの声に真摯に耳を傾けるなら、従来の防止策がまともに機能しているなんて、口が裂けても言えません。

 だからこそ、実際に親に虐待されてきたサバイバー当事者の声を最優先に大事にできるイベントを開催し、彼らが安心して彼ら自身の望みを言える場所にしたいと考えました。
 なぜなら、虐待サバイバーの日常には、こんな声が大きく取り巻いているからです。

「親だっておまえのために苦労して育ててきたんだぞ。まず親の苦労を思え」
「政治家や役人、支援者も真面目に虐待防止に努めてきた。無条件に敬意を払え
「運が悪かったと思って、虐待されたことなど忘れてしまえ」
「誰も悪くない。誰かを責めるのはおかしい」

 こうした声は大きく、被虐待児やサバイバーの口をつぐませ、黙らせてきました。
 非・当事者たちの「知ってるつもり」の壁の高さに、傷の癒えないサバイバー当事者の多くが理解されることをあきらめ、大きな声の人たちの事情を思いやるという作法でその場をやりすごすことを強いられてきたのです。

 私たち大人は、自分が子どもやサバイバーより圧倒的な強者であることに気づかず、時には「良かれと思って」上記のセリフを子どもや傷の癒えない人に投げかけてきました。

 サバイバーは、自分を虐待した親に対して個人的に責めることはあっても、親以外の人を個人的に責めることはありません。
 だから、『子ども虐待防止策イベント』も、特定の個人を責めるものではありません。

 従来の社会の仕組み(条例・法律・常識・偏見など)が、多くの被虐待児やサバイバーを救えていない現実を潔く認め、弱い立場の子ども側の声が強い立場の大人の声にかき消されない仕組みが必要であることを広く訴えたいのです。

 それには、まず私たち大人自身が、虐待サバイバーの抱える傷や痛みに対して目をそらさず、彼らが納得できるだけの関心を払ってこなかったことを反省しなければ、虐待被害の当事者から信頼を得ることは難しいでしょう。

 私たち大人は、有権者として被虐待児や虐待サバイバーを救う社会の仕組みを作り出そうともしなければ、彼ら被害当事者の気持ちをくんだ虐待防止策を政治家に法案として伝えることすらしてきませんでした。

 そうした私たち自身の怠慢が、今後も子ども虐待を放置・温存し、新たな虐待死や自殺を導いてしまうのは明らかです。

 間違っていたのは、「さんざん虐待された子どものうち、ほんのわずかしか保護しない」という方針であり、同時に「親に子どもを虐待させない仕組みを作ってこなかった」私たち大人の怠慢です。

 私たちは、「子どものため」と言いながら、子どもの話に耳を傾けず、虐待された当事者の話からは目をそむけ、子ども虐待の専門家や支援者の話を妄信してきてしまったのです。

 その怠慢の結果が、30年前と比べて約160倍以上に増えた虐待相談の件数です。
 親に虐待された子どもが、保護された先で職員に虐待される「施設内虐待」です。
 児童養護施設で育てば、大学進学率が10%台になってしまうチャンスロスです。
 大人になってもトラウマにいつまでも苦しめられ続けたサバイバーの自殺です。

 こうした過去30年間の惨状を失敗と言わず、「私なりにまじめに一生懸命にやったけど、十分ではなかった」と言い換えてしまうなら、それはまさに安冨歩さんのいう「東大話法」そのものでしょう。

 私たち有権者は、専門家や有識者を尊敬し、その言い分を妄信し、30年間も虐待防止策を間違え、失敗してきました。
 その長い間、多くの子どもの命が失われ、多くの人が精神病を患い、その果てに自殺へ追いつめられてきたのです。

 自らの怠慢によって彼らを精神病や自殺へ追いつめてきた有権者の一人である僕は、そろそろ率直な告白をしなければならないのかもしれません。
 『子ども虐待防止策イベント』のイベント・ディレクターの僕(今一生)も、虐待サバイバーの一人です。

 しかし、『日本一醜い親への手紙』の編著者である僕が、あるいは『子ども虐待防止策イベント』のイベント・ディレクターである僕が、自分自身の経験をすべて明らかにすれば、厄介な問題が生じるので、これまで公言することはなるだけ避けてきました。

 中途半端に公言すれば、「そんな程度は虐待とは言えない」と言い出す人が必ず出てきますし、サバイバーの中には「私が親から受けた被害はコンさんほど深刻ではないから『虐待された』と言える資格がない」と自分の苦しみを矮小化してしまう人が出てくるのも知っていたからです。

 苦しみの程度や質は、他人から判断されるものではありません。
 自分が苦しければ、苦しいんです。
 しかし、どんなサバイバーも、他人に言える範囲でしか苦しみを表に出せません。

 それがわからないまま、一方的に自分以外の人の苦しみの程度を見積もりたがる人が多いからこそ、人前では努めて笑顔で対応し、誰にも虐待被害を語らないサバイバーが少なくないのです。

 僕には、自殺してしまったサバイバーの友人が複数います。
 彼らはみな、「親を責めるな」「みんな虐待防止に努めてきた」などの非・当事者の声の大きさの前に言い返す気力を失い、自分自身の弱さを責めることしかできないまま、死んでいきました。

 僕は彼らの遺体や墓の前で、「僕なりに虐待防止にがんばってきた」などとは、とても思えませんでした。
 多くの大人が「専門家」だの「支援者」だのと自分の立場を守りたがる大きな声の前で、僕の友人たちがどれほど悔しい思いを抱き、何度しおれた気持ちを抱いたまま死んでいったのか、想像できるでしょうか?

 そのやりきれなさを痛感した僕は、僕自身が、虐待防止の制度設計に関わってきた専門家や有識者、官僚などに対して、甘い期待や過剰な尊敬を抱いていたことを思い知ったのです。

 30年間も虐待を減らせなかったのですから、これでまでの制度設計は間違いであり、明らかな失敗です。
 そのようにはっきりと認めなければ、親に幼い頃からさんざん虐待された果てに自殺に追いつめられた友人たちに対して、僕は顔向けできません。

 1日経てば、1人の子どもが殺されます。
 このまま従来通りの防止策を続けていくなら、今後10年間でさらに3500人の子どもが親に虐待されて死んでいきます。
 若者の死因1位が自殺である現実も、変わらないでしょう。

 今年は、コロナ禍で親子が家で過ごす時間が増えたため、例年以上に子ども虐待の相談が急増しています。
 それでも、政治家は子ども虐待防止のための緊急政策を打ち出していません。
 時限立法として緊急対策を国会にはかる議員も、いません。

 しかし、そんな状況だからこそ、虐待サバイバーのニーズに基づく新しい虐待防止策を議会に提出するタイミングではありませんか?

 子どもは、新型コロナによる感染ではなく、親による虐待で亡くなってしまうのに、有権者の私たちは政治家にその深刻さを伝えることすらしてきませんでした。
 だからこそ今年は、地方都市でも虐待防止の機運が少しだけ高まり、『子ども虐待防止策イベント』が昨年より3か所多い8か所で開催予定でしたが、1か所減ることになりました。

 大分県でも、『子ども虐待防止策イベント』の準備を地元市民のボランティア・チームが進めていました。
 他の7か所の開催地のスタッフやこのイベントに共感した方々も、大分のブログ記事を毎日何度も拡散し、気持ちのこもった応援をしてくれていました。

 しかし、大分のスタッフ代表から「大分のような田舎では刺激的な表現は避けたい」との指摘があり、スポンサー向け資料に僕が書いた「さんざん虐待された子どものうち~」のフレーズから「さんざん虐待された」を外してほしいと言われました。

 これまでは、表現を変えなくても鳥取のような田舎でも開催資金を調達できていました。
 今年は赤字補填に備えた寄付も集まってきているので、矮小化した表現に変えなければ5万円すら出さないスポンサーまで募る必要はないと思いましたが、「地元市民が言うのだから僕の知らない事情もあるのだろう」と察し、とりあえず疑問は飲み込むことにしました。

 その後、LINEグループ通話でスタッフ・ミーティングをしていると、「虐待被害者が自己負担してきた医療費を役所が全額返済し、親に請求できるようにする」というサバイバーのニーズに対して、スタッフから真っ先に「できない理由」が語られ、「それでも実現できるような仕組み」がポジティブに語られることはありませんでした。

 他にも、大分のスタッフが書いたブログ記事の中に、虐待サバイバーの当事者が読むと受け入れがたい表現が散見されていたため、違和感を限界まで募らせた僕は、代表へ個人的にLINEメッセージを送りました。
 電話はなく、その翌日、代表はLINEグループでスタッフも連れて代表を降りると宣言。
 僕は真っ先に、イベント・ディレクターとしての僕自身の未熟さを思い知りました。

 事前に虐待を自分事としてとらえる気持ちを地元スタッフと分かち合うことを、僕は僕自身の忙しさにかまけて出来ていなかったのです。
 大分の代表とスタッフには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 その後、残った数人のスタッフと会場を変え、リスタートの準備を進めていた矢先でした。
 某おもちゃ会社の会長にアポイントメントをとろうと、同社の本社受付に直筆の手紙と本『日本一醜い親への手紙』を渡した東京開催チームのスタッフの元へ、同社から本がそのまま返送されてきました。

 同社は昔から下町にあり、同じ下町に住む住民のスタッフが歩いて同社に向かい、下町の人情を信じて「会長に渡してほしい」とお願いしたところ、受付では快く受理されたのに、後から担当社員の判断で返送されてきたので、驚きととまどいを覚えました。

 これに違和感を覚えた僕は、何とも言えない悔しさを持て余し、twitterに同社の社員に対する批判的なツィートをしました。
 そのツィートは後から削除しましたが、残った大分のスタッフから「そういう書き込みをされては地元で協賛を得られません。開催はできません」と指摘され、大分での開催を断念するに至りました。

 大分での開催中止は、完全に僕自身がもたらした失敗です。

 各開催地のボランティア・スタッフの労力を少しでも軽くしようと、自分の仕事時間も睡眠時間も削った多忙と疲労困憊の中、虐待サバイバーとしての僕自身の感情を制御できなかったゆえに、「サバイバーの尊厳を最大限尊重する」という開催方針を分かち合ってからスタッフワークを始めることができなかった結果です。

 大分開催のために集まってくださったスタッフのみなさん、大分での開催を楽しみに応援して下さったネット市民のみなさん、本当に申し訳ありませんでした。
 責任はすべて僕にあり、開催に尽力された大分のスタッフには何の落ち度もありません。

 本当は大分のスタッフに1人1人に会って謝りたいですが、それをする時間やお金、体力の余裕がありません。
 どうか、ご容赦ください。

 活動の当初にオンラインだけでどこまで気持ちを分かち合えたのかはわかりませんが、少なくともサバイバーの抱え続ける深刻さに対する認識を分かち合えなかったのは、イベント・ディレクターとしての僕の落ち度です。

 今回のことで僕は、僕自身の能力や体力、心配りなどの限界を思い知りました。

 来年の『子ども虐待防止策イベント』は、「サバイバーの尊厳を最大限尊重する」という開催方針と過去の動画をふまえ、同じプログラムを地元でディレクションできる市民に自発的に開催してもらうことを基本とし、地元開催を望む先着5か所のみから事業委託先を募ることにします。

 なお、大分開催のために集められた寄付金については、会場使用料を先に払っていたので、それを抜いた1万円ほどの残金を僕が預かっています。

 このイベントでは、スタッフの活動に関わる個人負担をゼロにする方針があります。
 これまで打ち合わせに要した飲食費や交通費、備品購入などの経費明細がまとまった時点で元代表か会計係の口座に振り込みますので、メールをお待ちします(conisshow@gmail.com)。

 このブログを書くのが遅かったために、すでに連絡が取れないスタッフがいるなどの事情があれば、個別にメールをいただければ、指定の口座に立替分を振り込みます。
 残金1万円で足りない場合は、(赤字補填用の寄付のための口座ではなく)僕の個人口座から充当します。

 以上、本件では、多方面の方々にご心配もおかけしました。

 正直、初めての開催中止に心が折れそうにもなりましたが、この現実を受け止め、大分のみなさまには改めてお詫び申し上げるとともに、他の開催地のスタッフには迷惑をかけないよう、気を引き締めて進んで参ります。
 7か所の開催地の地元スタッフを、応援してください。

『子ども虐待防止策イベント』 イベント・ディレクター 今一生

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