ニュース報道では、高市早苗か小泉進次郎が、総裁選に勝つ見込みが高いという。
総裁選に勝てば、そのまま国会で内閣総理大臣に指名され、国会で承認されれば、国のトップになる可能性がある。
あえて「可能性」という言葉を使うのは、少数与党である自民・公明が承認しても、多数派を占める野党が全員、拒否すれば、次の総理は生まれないからだ
もっとも、自民・公明と連立したいと考えている維新や国民民主などの国会議員は、「石破の跡に総理がいないと外交も成り立たない」と考えるだろうから、結果的に高市か小泉のどちらかが総理になるのは、ほぼ決定だ。
ただし、少数与党の自民党の総裁が、そのまま総理になるという図式は、多数派の承認を前提とする民主主義の手続きとして破綻している。
それでも、自民と連立を組みたい野党の議員は、「民主主義よりとりあえず総理がいることが大事だ」と言うだろう。
なので、国会で少数与党の自民党の新総裁が内閣総理大臣になる現実は変わらない。
それが民主主義社会で正当性のある手続きといえるかどうかは、裁判に訴えて、判断を仰ぐしかない。
ただし、最高裁の裁判官を任命するのは総理大臣なので、最高裁の裁判官は、総理の正当性にお墨付きを与える判決を出すだろう。
日本は、社会の教科書のように正三角形の三権分立にはなっていないのだ。
三権分立はただの理想で、最高裁の裁判官も、総理も、国会議員も、守っていない。
三権分立とは、司法(裁判所)・立法(議会)・行政(役所)がお互いに緊張関係を持ち、相手の間違いや不当性をただすことにある。
たとえば、こども家庭庁は行政(役所)だから、国会で決まった法律や予算の範囲で仕事をする。
だから、役所として必要な法律や予算が足りなければ、担当大臣に文句をつけるのが本筋だ。
しかし、一部のアホな国民は、役所であるこども家庭庁に「解体しろ」と文句を言う。
文句を言うべき相手は、担当大臣である政治家なのに、三権分立を理解していないのだ。
他にも、たとえば、国会で新しい法律を作られたとする。
でも、その法律が憲法違反の疑いがあると判断したら、「ちょっと待てよ。もう1回審議をし直せ」と文句をつけるのが、裁判所の仕事だ。
アメリカの事例を見てみよう。
トランプ大統領が国際緊急経済権限法(IEEPA)を根拠に輸入品に対して広範に関税を課そうとしていた計画があった。
裁判所はこう発表したのだ。
「アメリカの憲法は、課税権限を大統領ではなく議会に付与しており、これは大統領の非常権限でも覆すことはできない」
というわけで、連邦最高裁判所は、トランプ政権が課した相互関税の合法性を争う訴訟について、2025年11月5日に口頭弁論を開くことを決定している。
つまり、相互関税については、アメリカ国内でトランプ大統領と裁判所が対立しているので、裁判所が違法判決を出せば、相互関税が止まったり、税率が低くなったりする可能性がある。
日本の裁判所は、国会が制定した法律が憲法に違反していないかを審査する「違憲立法審査権」を行使する手続きになっている。
では、違憲立法審査権が実際に行使されたかどうかを見ると、その頻度は極めて低い。
これには、裁判官の人数が訴訟の多さと比べて足りていないという実務的な問題が背景にある。
でも、もっとも本質的な問題は、民主主義を理解している日本人がまだ少ないことで、三権分立どころか、民主主義マインドすら理解できない日本人が多いからだ。
それは、戦後80年間、義務教育でも高等教育でも、「民主主義とは何か」を教えてこなかったからだ。
日本は戦争に負けてから、民主主義は議会での多数決によって法律や予算が決まる手続きであることを初めて知った。
成人女性の参政権も、戦争に負けたから選挙法が変わり、ようやく普通選挙として実現したものだ。
しかし、民主主義にとって一番大事なのは、国民自身がどんな法律や予算が必要かを考え、政治家にそれを求めていくという構えだ。
憲法で主権が国民にあると明記されている以上、政治家は主権者である僕ら国民の代理人にすぎない。
何が欲しいかを具体的に考えるのは国民の権利であり、この権利を行使し、政治家に仕事を与えるために金を払って雇っているのが、主権者の僕らなのだ。
だから、「先生、とにかく困ってるからなんとかお願いしますだ~」と政治家に頭を下げるようでは、戦前までの封建主義マインドのままだ。
民主主義社会なら、主権者の僕らは政治家にこう言うのが正解。
「おまえの給与は、俺の財布から出ている。俺たちはこういう法律を作れと声を上げている。ちゃんと話を聞きに来い」
僕は、政治家を集めてイベントをやってきた。
今年も11月に開催する。
そこで政治家と市民が話し合えるチャンスを作れば、政治家は、市民がどれほど切実に困っているかを知ることができる。
もっとも、日本人の多くが民主主義マインドを持っていないことを、政治家は知っているので、市民が呼びかけても、政治家は市民との議論の場になかなか足を運ばない。
そこで政治不信がまた募るわけだが、政治不信はむしろ民主主義マインドの目覚めになることがある。
たとえば、子どもの貧困が叫ばれて久しいが、政治家が有権者ではない子どものために、子どもの貧困を救う法律や予算を議会で議論しない。
その結果、子どもが無料(もしくは超格安)でご飯が食べられる「子ども食堂」が全国各地に増えて、たった8年間で1万店を超えている。
このように、誰かに任せるのではなく、自分が動いて社会問題を解決しようというマインドこそ、民主主義マインドそのものといえる。
この民主主義マインドを多くの国民が持っていなければ、「民主主義国家」ではないのだ。
民主主義マインドは、日本では、21世紀に入ってから全国各地の大震災や貧困化などを経て、非営利組織を立ち上げる人が増える形で、少しずつ育まれてきた。
2018年には、NPOの数は5万件を突破し、法人化していないボランティア団体を含めると、2023年時点で約20万団体に及んでいる。
この20年間を見ると、ボランティアや寄付では活動経費がまかなえない問題にぶつかることから、事業型NPOとして収入を確保しながら、社会問題の解決に持続的に取り組む団体も増えている。
そして、株式会社などの本来なら営利最優先の法人や、一般社団法人のような営利と非営利の両方に取り組む法人でも、ボランティアや寄付を集め、社会問題の解決に取り組む団体も増えてきた。
さらに、社会問題の解決のために、社会の仕組みそのものを変える活動を行う「社会起業家」と呼ばれる人たちも増えてきた。
たとえば、「ゴミ拾いをやろう!」と言っても、なかなか多くの人が集まらない。
しかし、ゴミ拾いをスポーツとして団体競技に変えると面白くなるので、参加者が激増する。
そこで、「スポーツゴミ拾い」(略してスポGOMI)というスポーツを作り、国内外で試合を開催している団体も現れ、町や海のゴミを拾う「スポGOMI甲子園」や「スポGOMIワールドカップ」まで開催されている。
ワールドカップなので、世界中に予選を勝ち抜く団体が既にあるのだ。
さて、このように、自分たちが見過ごせない問題は、まず自分たちが解決に動こうというムーブメントは、その活動自体を仕事にできる時代に入りつつある。
生きづらい社会の仕組みを、面白い発想で生きやすい仕組みに変える発想を、ソーシャルデザインといい、ビジネスを通じて社会を変える民間の動きをソーシャルビジネスという。
1人でも多くの国民が、最初はボランティアや寄付で始めた活動を、商品やサービスの形に変えることでビジネスに変えれば、仕事にできる。
仕事なら毎日、継続的に取り組むことになるので、政治家に頼まなくても民間で社会問題を解決できる範囲を拡張できるのだ。
もっとも、これはあくまでも自助と共助の範囲であって、法律そのものが生きづらい社会の仕組みになっていたり、大震災からの復興のような大きな金が必要になる場合は、政治家が法律改正や予算拡大に動く必要がある。
ただし、日本では少子化問題が深刻化しているのに、移民の受け入れに反対してきた自民党から、新しい総理が生まれるのだ。
その結果、日本の少子化は止まらず、50年後には6000万人まで人口が半減するのを止められないだろう。
そうなれば、物価は今の2倍以上に高まり、所得倍増ができないので、貧困層ほど海外へ移民せざるを得なくなる。
つまり、さらに少子化は加速し、止められないおそれが高まり、残念だが、内閣府が公表しているように、人口は減り続け、日本国は消滅してしまうのだ。
2025年の現在、民主主義マインドに1人でも多くの日本人が目覚めて、政治家より民間で少子化問題の解決を目指そうとするか、それとも社会問題を他人事にして国家消滅を受け入れるのか?
どちらが早いかは、わからない。
ただし、時間は待ってくれない。
そうした不都合な現実に向き合わず、効果の出る少子化対策も作れない自民党のせいで、せっかく生まれた子どもは大人に傷つけられて自己評価が低くなり、毎年500人以上の未成年が1人で亡くなってしまう深刻な問題は、有権者も政治家も無関心のまま放置されている。
子どもを大事にできない国は、確実に亡びる。
あなたなら、どの法律を変えて子どもを救いたいか?
あるいは、どの予算を増やせば、子どもを救えるか?
ぜひ生配信のチャットや、動画のコメント欄に、あなたの問題意識と解決のアイデアを書いてみてほしい。
それが、政治家に任せきりにしない民主主義マインドを、自分の中に育てるってことだから。