(このテキストの動画版は、コチラ)
ネットで連載していたマンガ『みいちゃんと山田さん』の最終話が掲載された第7巻が手に届き、最後まで読んでみた。
その率直な感想を述べてみたい。
まだ読んでない人のために、簡単なあらすじを先に紹介しておこう。
新宿・歌舞伎町のキャバクラで、「山田」さんという源氏名の若い女性が、「みいちゃん」と名乗る背が低くて子どもっぽい同世代の女性と出会う。
みいちゃんは、医者の診察を受けてはいないものの、知能や発達に生まれつきの障害があるようで、仕事も満足にできないばかりか、盗みも平気でやるし、迷惑をかけると性的なサービスを提供してトラブルシューティングしてしまう。
みいちゃんと山田さんは次第に仲良くなっていくのだが、2人は一緒に住み始めたものの、山田さんはみいちゃんのルールを守れない愚かさに嫌気がさし、みいちゃんを故郷の宮城県に帰してしまう。
第1話からこの「みいちゃん」が最後には命を奪われるラストが予告されていたが、SNSを中心に障害者に対する差別を助長する作品だと指摘され、複数の障害者団体からアニメ化についての懸念が発表されていた。
もっとも、最後まで読むと、『みいちゃんと山田さん』(略して『みい山』)という作品に差別的な表現はどこにもなく、むしろ障害のあるなしを越えた生きづらさを考えさせる内容だった。
だから、まだ読んでない人も、この動画を最後まで見て、どんなマンガだったのかを改めて考えてみてほしい。
タイトルにある通り、知的障害を思わせる「みいちゃん」と支配的な母親を捨てられない「山田さん」の2人の距離が、少しずつ少しずつ近づいていくのが物語のベースにある。
ただし、2人の距離が近づいても、2人の関係はあらかじめすれ違っている。
みいちゃんは、山田さんほど長い時間話し込むような相手がいなかったので、気を許していい相手だと思い込んでいる。
しかし、自分が山田さんにとって迷惑になることをしてしまうという現実には気づけないし、仲良くなることも、おままごとの延長ぐらいの意味しかわからない。
生活費とか、将来設計とか、考えることがふつうとされることも、みいちゃんには関心外なのだ。
一方、山田さんは、大学卒業後に就職する気がないことを母親に言えず、マンガ家になりたいという本心も、キャバクラで働いている事実も、みいちゃんのおかげで母親に伝えることができた。
みいちゃんの障害特性である「空気が読めずに言ってしまう」という習慣が、山田さんにとっては、支配的な母親が怖くて自分では言えなかった本音を伝えるのに役立ったのだ。
だから、山田さんはみいちゃんを大事な存在だと感じて、みいちゃんが亡くなった後は、みいちゃんに関するマンガを描くことを目指す。
みいちゃんが生きていた証を作ろうと奮闘し、実現するのだが、そのマンガを描き上げるストレスで摂食障害で肥満体になり、命を落としてしまう。
このマンガは、何を言いたかったのだろう?
もちろん、いろんな読み方ができるし、作者のメッセージも一つではないだろうが、僕の見立ては「ありのままの自分を見せ合って付き合いを深めることの難しさ」だ。
このマンガには、象徴的に知的障害の特徴が描かれるが、障害者と健常者ではお互いに異文化を生きていて、違う国の人どうしのように、言葉が通じ合わないのだ。
日本語で会話したくても、相手が中国人なら中国語や中国の文化を知ろうとしないと、誤解や偏見が生じやすくなる。
健常者と障害者がつき合う際も、お互いに相手が理解できる共通言語を学ぼうとしないと、互いに自分の気持ちが空回りしてストレスを抱え、つき合うのが苦しくなってくるだろう。
日本の場合、幼稚園までに障害が認定されると、障害児だけが通う特別支援学校へ通うことになる(昔は養護学校と呼ばれていたもの)。
障害のあるなしについて医者の診察を親がためらってしまえば、子どもは障害者の自覚もできず、健常者の中で「できの悪い子」として扱われてしまう。
『みい山』で描かれた「みいちゃん」は、まさに診察を受けることがなく、障害者認定されなかった女性だった。
そのように、医者の診察を避けることで困りごとが増えるのは、親の無責任の結果といえる。
それは「ネグレクト」(養育放棄)という虐待の一つだが、日本の法律が子どもを親の所有物のように規定している以上、子どもが親をチェンジできる権利を法律で保証しない限り、子どもはいつまでも親の操り人形にされたままだ。
健常者が障害者とつき合うのが楽になるための学びは、義務教育である小中学生では、ほとんどない。
これは多様性を打ち出す21世紀の今日では、おかしなことであり、障害者にストレスを与えないために健常者が学べるように学習指導要綱を根本的に改定する必要があるだろう。
実際、みいちゃんの母親がそうであったように、親自身が医者の診察を受けたがらない「隠れ障害者」もいて、そうした親に子どもが苦しめられていることもあるのだ。
『みい山』は、他にも多くの示唆に富むセリフを提供していた。
できれば1巻から7巻まで通しで読んでほしいが、示唆に富む部分を端的にまとめておこう。
●「どこの職場も欲しがるのは結局、ちょうどいい障害者なんだ」
障害者向け就労支援作業所を運営するおじさんのセリフだが、その「ちょうどいい障害者」にみいちゃんは該当せず、該当したムウちゃんがやっている仕事はホチキスの針を箱に詰める作業だ。
これは、日本の福祉制度が、障害者に健常者と同じ程度の収入額面を稼がせる仕事を作れないでいる結果だ。
●「学校のクラスとかにいなかった? 見てるだけで優越感に浸れる存在……。過去あらゆる国で身分制度が制定された理由もきっとそうよ。自分以上に苦しむ人を作り安心感を与えるの」
みいちゃんと山田さんが働くキャバクラの仲間であるココロちゃんのセリフ。ココロちゃんは、同じ店にみいちゃんがいてほしい理由をそんなふうに説明した。
「自分より下がいる」という見下ろすまなざしこそ、差別と偏見を生み出しやすい。
日本は、障害者だけでなく、子どもを平気で見下す。その理由は「大人より知能が低い」と思われているからだ。
だから、子どもは今でも親の所有物として商品のように扱われたり、性的にも暴力の対象になりやすい。
ドキュメンタリー映画『黒川の女たち』では、敗戦直後に中国本土から逃げる開拓団が、ロシア兵から攻撃されないように、まだ12歳だった日本人の少女をロシア兵に差し出した事実を記録している。
日本人の大人は、今日でも子どもを親の持ち物のように法律で縛り上げ、子どもを犠牲にしてきたのだ。
他にも印象深いセリフは少なくないが、物語全体を通じて、みいちゃんの悩みはお金がないことだ。
彼氏に暴力で奪われたり、風俗で搾取されたりと、出ていくことも多いが、そもそも金銭管理や将来を見越して必要な金額を稼ぐといった備えも、みいちゃんにはできない芸当なのだ。
もっとも、2026年の現在で考えると、お金がないことは、みいちゃんだけでなく、障害者だけでなく、普通の中流資産層ですら同じだろう。
『みい山』のラストで漫画家になれた山田さんが亡くなってしまうのも、せっかく連載マンガが25万部も売れたのに、人気がしぼんでくれば、容赦なく打ち切りになる残酷さに、体がついていけなくなったからだろう。
それは、読者からの人気をつかんで、派手に売れるようなマンガでないと、連載を続けさせてもらえないという時代のシビアさをはっきりと描いたものと言える。
でも、僕らが見たいのは、本当に人気の高い作品だろうか?
『みいちゃんと山田さん』の連載が始まる前、知的障害の若い女性が主人公の一人になるマンガである点で、講談社は紙の雑誌である「少年マガジン」や「モーニング」「アフタヌーン」あたりでの連載ではなく、ネット上の連載にした。
つまり、障害者が主人公になるマンガは王道ではないという判断だったのだろう。
だから、300万部の大ヒットになって、アニメ化も進むような展開は予想外だったはずだ。
そうした実験的な試みは、印刷費のコストを賭けずに済むネット連載が向いているのかもしれないが、集英社は車椅子バスケのマンガ『リアル』を「ヤングジャンプ」で連載させた。
どんな分野のネタでも、マンガなら多くの読者をつかめる。
僕は、みいちゃんのような障害者が、健常者より稼ぎ出せる物語をマンガで読んでみたい。
水玉模様のアートで有名な草間彌生さんが先日亡くなられたが、障害者でも稼ぎ出せる仕組みは、人それぞれ違うのだ。
さて、ハンディキャップを持ちながら金を稼いでいる事例を、あなたはいくつ知ってるだろうか?
新聞やテレビで知った事例でもいいので、一つでも多く教えてほしい。


