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母が虹の橋を渡った ~動画で語り切れなかった、葬儀では語らない弔辞



 2025年2月18日午前、母が死んだ。
 病院で大動脈破裂を起こし、享年87歳。

 同日午後、葬儀場の遺体安置所で母を見た。
 4年ぶりのその顔は、とても小さかった。
 しかし、僕の感情は一切揺れず、泣くことも動揺することもなかった。

 葬式で泣かないと「冷たい人」と言われそうだが、その理由については動画で語った。

 あの動画だけだと、僕が母を恨んだり、憎んだりしているかのように勘違いしてしまう人もいるので、もう少し伝えておこうと思った。

 明日(21日)葬式があるが、行くかどうか迷っていたので、着たことのない新品の黒服が体に入るかを確かめたら、なんとか入ったので、おそらく行くことになるだろう。

 その前に、どうもモヤモヤする気持ちがあって仕事に集中できないので、母の人生はどんなものだったかをちゃんと書き留めておこう。

 母の人生を要約すると、福島県会津若松市の米農家に生まれ育ち、中学卒業後は20歳まで裁縫や料理、家事などの花嫁修業をした後で上京。
 裁縫工場で働いていた時に、東京と隣接する川口市在住の男と結婚した。

 工業高校卒のこの男は、丸善石油(現在のコスモ石油)の正社員だったが、彼の父親は酒を飲んで働かず、新聞配達で働いた金を家に入れ、修学旅行も自分で払った貧困家庭出身だった。

 2人が結婚を考え始めると、母の実家は探偵を雇い、男の家庭の実態を知って結婚を渋ったそうだが、男の姉が「子どもを作ってしまえば大丈夫」と助言したので、僕が生まれたわけだ。

 僕が小学生の頃、母は父がどれだけ貧困で苦労したかを何度も繰り返し僕に説き続け、「可愛そうな人なの。わかってあげて」と言われた僕は、父に不満を感じることがあっても、母の言葉を守って黙っていた。

 母が金銭管理ができないため、父は手帳に小さい字で支出や用事をメモしていたが、僕は小学生の高学年の頃、昔の手帳を家の本棚から発見し、読むことがあった。

 その手帳には、「今日もパチンコをやってスッてしまった。子どもができたのに情けない」と何度も書いてあり、パチンコ依存症に苦しんでいたやさしい男であることを僕は認め、勤勉に働いては帰宅して食事したら寝るだけの父を受け入れていた。

 子どもと遊んだり、会話を楽しんだり、相談したりというコミュニケーションが父との間になく、母との間でも難しいという時期が僕の10代だった。

 もっとも、僕が幼稚園児の頃、父の姉(伯母)の家に親子3人で訪れた際、父が母の頬をビンタしたのを、映画のワンシーンのように覚えている。
 おそらく父は、母がコミュニケーションの難しい人間であることにいら立っていたのだ。

 母は、診察を受けたことがないが、明らかに発達障害だった。
 僕が物心つく小学生の頃から、母とのコミュニケーションは常に一方的だった。

 僕は、「ご飯だよ」「お風呂沸いたよ」という母の言葉を一方的に受け入れるしかなかった。

 僕から声をかけても、それがどんな話題でも毎度「違うの」といきなり否定され、その後に続く話は「夕飯、何時にする?」という母親にとってのみ都合の良い話題が続くだけ。

 もちろん、当時は1970年代で、発達障害と言う言葉もなく、地域の総合病院の精神科に足を運ぶことは、世間体の悪いものだったろう。

 しかし、たとえ知能が弱くても、ぶたれれば痛いし、感情がないわけではない。

 父が愛されずに育ってきた生い立ちによって、愛されずに大人になったことの弊害を自分で考えようとしてこなかったから、母とのコミュニケーションがまともにできない現実を解決しようとしなかったのだ。

 大人になってから僕は、何度も父に「どうつき合えば上手くコミュニケーションが通じ合えるのかを知るためにも一度診察に連れて行ってあげて」と頼んだが、彼は首を振るだけだった。

 そうこうしているうちに母は認知症になったが、父はそんな母を一人家に残して趣味の社交ダンスに出かけていく始末だった。

 そんな父は、母の遺体と二人きりになって泣きながら何やら延々と話しかけていたが、僕はその白々しさに耐えきれなかった。

 亡くなる直前まで、母は病院で僕に会いたいと父に何度も伝えていたと、妹が教えてくれた。

「私には敵を見るような目つきで嫌がるのに、お兄ちゃんのことばかり言うのよ」

 妹はそんな不満を口にしたが、生前、母から何度も「いつ家に帰るの?」という電話にうんざりしていた僕は着信を無視し続けていた。

 父は僕に「俺の家から出て行け」と言ったことを、認知症の母に伝えていなかったのだろう。
 あるいは、伝えてもわからないと思ったのかもしれない。

 しかし、母にしてみれば、自分の兄弟も夫もみんな高卒で、自分だけ中卒だったことを80歳を過ぎるまで僕に秘密にしていたぐらいだから、彼女自身ができる出産や家事を粛々とこなす中で、僕の成長や健康、早稲田大学に入学することなどを誇らしく感じ、「ちゃんと子育てできた自分は生きていていい人間だ」と思いたかったのかもしれない。

 あれは、19歳ぐらいで父の裏切りによって僕が荒れていた頃だったろうか、母は僕にこう言った。

「人は、望んでもないのに生まれてきて、望んでもいないのに死んでいくのよ」

 母には豊富な知識や高い学歴もないために、いつも言葉足らずだったが、本当は生きづらかったのだ。
 しかし、そうした生きづらさの解消に利用されるのは、子どもの僕には重荷すぎた。

 父は愛を知らず、母はどんなに家事をこなしても報われず、休みなく家事を続けるばかりの人生で、離婚して経済的に自立することさえあきらめていたから、自分の育ての成果である子どもの僕にしつこくまとわりつこうとしていた。

 そういうふうにしか生きられない属性の人もいるだろう。
 だが、僕だって子どもの頃から親の不手際や無関心と折り合って、グレることなくガマンしてきたのだ。

 だから僕は、母の遺体の前で合掌しながら「もう、つきまとわないで」と祈った。
 父も母も友人がおらず、家に両親の友人が遊びに来たことはなかった。

 だから二人は、お互いに理解し合うことなくガマンばかりを重ね、ガマンしなくていい解決の知恵を探そうともせず、子どもを一方的に従わせることにためらいがなかった。

 一人になった父は、今のところ心身共に健康だが、これから本格的にさみしい老後を送り、認知症になったり、足腰が立たなくなるだろう。

 僕は、80代後半の彼らの年齢まで生きられるなんて思っていないが、父が先に死ぬことになっても、妹と葬儀代を割り勘にするだけで、遺体を見たくもないし、葬儀に出るつもりもない。

 自分以外の誰かの人生を捻じ曲げた男は、その罪に見合う老後を受け入れるしかない。

 僕は不幸な両親を見ながら、「やっぱ愛が一番大事だよな。友人たちをできるだけ大事にしよう」と改めて思う。

 人は望んでもないのに生まれてくるものだが、「どんな困難があろうとやりたいことをやって生きてやる!」という気概を持ち、友人たちに励まされながら、僕はこの人生を生き切ってやりたい。

 僕がそう思いながら今日を生きている現実こそ、母よ、あなたがしたくてもできなかった人生ではないか?

 今度こそ子どもの声を聞いて、潔く成仏してほしい。これが僕なりの、あなたへの弔いだ。



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